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江尻隆弁護士の20年愛人が陳述書を提出、女性蔑視の人格を非難

元部下の女性弁護士から損害賠償請求を受けている江尻隆弁護士

江尻隆弁護士との婚約不履行を訴えている森順子弁護士が、裁判で甲第17号証として陳述書を提出したので、以下掲載します。

陳述書(甲第17号証)

2015年6月30日

東京地方裁判所民事第30部ろA係 御中

住所 東京都文京区本郷七丁目2番5号平清ビル6階

氏名 森 順子

本件について、20余年に亘る長い間の出来事を書面に記すのは容易ではありませんが、記憶をたどりながら、私と江尻先生(以下、「被告」という)との間の交際経過について述べさせて頂きます。

1 知り合ったきっかけ

(1)私は1987年の弁護士登録当初より、外債発行を専門とする友常木村見富法律事務所(当時)(現アンダーソン毛利友常法律事務所)に勤務し、日本企業のユーロドル建て・スイスフラン建て外債や、外国政府・企業などのサムライ債(円建て債)などを専門にしておりました。

(2)このような弁護士業務は、東京都内では当時5~6件の法律事務所だけが担当する分野で、アソシエイト(イソ弁)としては極めて狭い範囲のノウハウしか習得できず、他の若手弁護士が経験を積んでいる訴訟、仮処分の申立て、労務問題、家事事件など本来の弁護士業務については全くやったことがない状況でした。

(3)1988年11月に、たまたま当時の事務所のボス弁が会議出席の都合がつかなかったため、私が米国弁護士と共に出席した会議が、被告との初めての出会いです。この時の私の被告に対する印象は、外債を担当するボス弁はいずれもキツイ人が多いのに「なんて優しい先生だろう。こういう先生の下で働いたらさぞ楽しいだろうな」と憧れの気持ちを抱きましたが、それは恋愛感情とは全く異なるものでした。

(4)その後、私は当時所属していたボス弁とそりが合わず、事務所を辞めて1990年にコロンビア大学ロースクールに留学しました。留学の話を同じ業界の同期弁護士にしたところ、「事務所をやめたのなら江尻先生のところに挨拶に行ってみたら」と勧められ、被告とパートナー(当時)の小泉淑子先生とランチをご一緒しました。その時、被告から「森さんがフリーなら是非うちの事務所に入ってよ。大歓迎だよ。」と言われ、とても嬉しかったのを今でもはっきり覚えています。なぜなら、外債発行しか経験のない状況では、留学から帰っても再就職先はやはり外債専門の事務所(当時は常松柳瀬、濱田松本、青山クリステンセン野本、友常木村見富、三井安田、桝田江尻の事務所がほぼ全部の外債案件を独占していました)しか採用してくれそうになく、他方、業界内での事務所相互間の友好的関係を保つため、この内のいずれかをボス弁との折り合いが悪いと辞めた弁護士を採用してくれる弁護士事務所など無いと言う人もいたからです。

(5)その後、ロースクール留学中に、ニューヨークに被告が出張してきた際に、被告と、当時留学中だった桝田・江尻の弁護士中田氏と飯村氏と4人でディナーをご一緒しました。その際も「森さんが事務所に参加してくれると本当にうれしいね。森さんは僕の好みの女性だから楽しみだ」と言われました。当時は、被告は私からすると業界のやり手弁護士で、年もずっと離れていた大先輩ですので、極めて敷居の高い存在でしたので、好み云々は全くの冗談だと思いました。

2 事務所経営者”ボス弁”の立場を利用して、結婚を迫る。

(1)1991年に留学から帰国してからは、外債発行案件での被告の専属のようなアシスタントとして忙しい毎日でした。当時の桝田・江尻事務所内では、外債発行の案件はほぼ全件、被告が独占していました。私は、外債発行という特殊な仕事ばかりで、結果として被告のみからしか仕事はもらえず、その仕事のみでやっていくという形で、弁護士としての能力が身につくような仕事はさせてもらえないのが少し不安でした。でも、人当たりの良い被告と一緒に仕事はでき、また、前の事務所のようにボス弁から叱責される毎日ではないので、安心して働いていました。

(2)1991年12月、入所間もなく、私は被告より、「二人きりで飲みに行こう」と誘われました。

いわいる”ボス弁”に逆らえるはずもなく、霞ヶ関ビルの地下の料亭に二人で行って、飲食を共にしました。

(3)この時、最初のプロポーズを私は被告から受けて仰天しました。

その日の会話は私の人生の分岐点となってしまいましたので、今でもはっきりと覚えています。被告が「桝田さん(当時の桝田・江尻のパートナーで、離婚して秘書と再婚したのち、ニューヨークに住んで桝田・江尻ニューヨークオフィスを開いていました)のように、僕も若い女性と結婚して幸せになりたいよ。女房とはとうに気持ちが離れているし、子供も大きくなったのだから、自分自身の人生を考えたい。遊びではなくて、真剣な気持ちなので、結婚を前提に交際してもらえないか」と切り出されました。

私は、「先生もご存知のように、私は早く結婚して子供を持ちたいと思っています。先生がもし不倫を考えているのなら、事務所内での私の立場も難しくなるし、事務所内でそんな大きな秘密をもちながら、これから先仕事を続けていく自身もありませんし、とても私には無理です。」と答えました。

(4)事務所に入所して間もないし、仕事上の付き合いのみで、しかも、私の唯一のボス弁の被告に、弁護士として新人の私が結婚を考えてくれといきなり言われ、最初は驚き以外の何ものでもありませんでした。しかし、無下に断ったり、一笑に伏すとか、軽く流すということはイソ弁とボス弁の違いや、先輩弁護士であることからも不可能でした。私は不倫は嫌だということ、結婚したいと明白に行ったのです。

(5)その日はその後も、二次会に行こうと誘われ、銀座の小さなバーに連れて行かれ、私は被告に散々又、口説かれました。最初は本気なのか若干疑いましたが、被告が幾度も本気だというので、これだけ社会的地位の人が嘘を言うとは思えなくなりました。

私は当時独身で、付き合っている人もいませんでした。結婚してくれと言うし、年はかなり離れていますが、先輩弁護士で事務所経営者という立場を踏まえて、結婚を被告が申し込む以上、私としてもボス弁である以上、無下にすることは全く考えられませんでした。真剣に考えないといけないとプレーシャーを感じました。

(6)私は当時35歳、被告は49歳でした。弁護士経験は原告は4年、被告は22年でした。年齢差の14歳や前述のように弁護士歴18年はとてつもない重みがありました。その上、上司であり、事務所では私は被告の専属のような立場で他の人から仕事をもらうこともないという絶対的に仰ぎ見る存在だったのです。

3 ”ボス弁”の立場を利用しての肉体関係の強要

(1)1991年12月のプロポーズの日には、被告は私を家まで送ると言って、強引にハイヤーに乗り込んできました。終電は出てしまいました。断ることも出来ません。

(2)自宅で私がハイヤーから降りると、自宅前であるにもかかわらず、被告がいきなりキスをしてきました。一方的で、突然で、私は呆然としてしまいました。ボス弁なので抗議することも出来ませんでした。明日からもボス弁として事務所で会う以上、ことを荒立ててはまずい、即、解雇につながるからです。

4 さらなる結婚の申し込みの圧力、仕事を失う日々

(1)すぐに交際したのではなく、その後もかなり被告の積極的な誘いを受け続けていました。私の気持ちはとても複雑でした。もちろん、被告は、仕事もやり手だし、人柄も明るくて親しみやすい方だとは思っていましたし、上司としては好感をもっていました。もともと、被告に説明した通り、私自身は、家庭を持ち、子供を持ちたいという、通常の結婚願望を持っていました。年齢的に、30代半ばになっていたので、子供を産むためにも”早く結婚したい”という気持ちでした。留学中に同期の友人は皆結婚してしまいましたし、当時は付き合っている人もいなかったことで、焦りもありましたが、被告の再三の結婚の申し込みにプレーシャーも感じました。何故ならば、私と被告との年の差がかなりあることで将来の心配がありました。同時に、被告が何回も結婚前提の強い交際を申し入れているのに、断ったらどうなるのだろうという想いと、断って事務所に居られなくなったら、このような狭い業界ではもう行く事務所がなくなってしまうという、仕事を失うかもしれないという強い不安でした。

(2)結局、強引な結婚の再三の誘いを断ると自分の仕事すら失うと思い、言われるままに結婚を前提とした交際に応じました。被告は、20人を超える(当時としては大事務所)事務所の責任ある立場のボスですし、事務所内での恋愛はご法度とされている中、結婚したい、不倫なんて考えていないと再三被告に口説かれ、強く交際を申し入れるのは真剣な気持ちからであると信じるのは当然でした。自分の女としての価値をこれだけ大先輩の弁護士に認めてもらったのだと思いました。かなり年は離れていましたが、迷いながらも被告との結婚を受け入れる気持ちになりました。

(3)結婚前提の以上、なるべく早く、2人の関係を公的にしたいと願っていました。しかし、私は独占的に被告から仕事をもらう身分でしたし、強くは言えません。交際を始めて、辛かったのは、被告との付き合いが何時も仕事絡みであったことです。外債発行の仕事は、大阪、名古屋、福岡と、地方の上場企業にデューディリジェンスで2泊から3泊の出張が入ることが多く、被告のその当時のお供は殆どが私でした。出張すればクライアントと一緒に夜の飲み会が多くなり、二次会、三次会と飲んでいるうちに、二人切りになることも多かったです。出張のときは、いつも、一旦クライアントと散会したのちに、被告から私のホテルの部屋に電話が入り、「これから行くから」と言われました。来るなとは言えません。ドアを開けないわけにもいかず、結局朝まで一緒に過ごしていました。私としては、クライアントの費用で出張しているにも拘わらず、このような関係を持つことがとても恥ずかしく、みじめでしたが、被告はそんなことは一向に構わないような態度で、翌朝は何事もなかったように仕事をしていました。

5 マンションの賃貸は結婚前提、マンション家賃も全て負担される被告

(1)このように、一旦交際を始めてしまうと、私自身も被告を信頼しましたから、堰を切ったように会うことが多くなり、そのうちに、二人である場所が必要になりました。私はアメリカから帰国してからずっと親と同居していましたので、帰宅が深夜になることを言い訳を両親にするについても、嘘で固めた言い訳をしなければならず、又、いつもホテルで会うのがこそこそしているようで、つらい思いでした。被告に、今すぐに結婚しての同居は無理であっても、とりあえずホテル以外のところで会いたいと希望を言ったのも、間接的に早く2人の関係を結婚という形で他人の目をはばからないようにしてほしいし、2人での家庭的雰囲気を味わいたいという思いからでした。被告は渡りに船だったのでしょう。是非マンションを探してほしい旨、のってきました。

(2)私の気持ちとしては、もう子供を持つにはギリギリの年なので、きちんと結婚して子供が生まれる環境を整え、二人で暮らしたいと思いました。被告は「急に事を進めるのは私も立場が悪くなるし、二人のためにならない。少しの間、一人で辛抱してくれ」と言われ、2人の名義ではなく、私の名義でマンションを借りることになりました。また、マンションの家賃も、被告が支払うと経理を全部握っている秘書にばれてしまうと言われ、仕方なく当面は私が全部支払うことになりました。引越代、家具、備品全て家賃も含めて私が負担していました。

(3)マンションで定期的に会うことになりましたが、私は両親に「仕事が超忙しいので実家に毎日帰れないこともあるし、深夜に帰宅すると却って家族に迷惑がかかるので。」と言い訳して、被告と会う日だけマンションに泊まりました。しかし、被告と会う日以外は実家から事務所に通わざるを得ないため、マンションで会う日には事務所から急いで帰り、被告の為に短時間で食事の支度などをし、被告が帰ればまた短時間で掃除して、後片付けして、という家事を繰り返してきました。経済的にも身体的にも精神的にもこの二重生活は私にとって負担でした。

(4)マンションについての家賃等は、訴状のP20の通りです。私の給料は、それほど高くなく、大変な出費でした。片や、被告は長者番付に載るほど稼いでいて、私の収入の100倍はありました。

6 その後の交際中、結婚について確かめる。他の人のプロポーズ断らせる。

(1)1993年にも私は、「江尻先生は私たちの将来のこと、結婚のことを話してくれなくなったが、私たちはこれからどうなるの」と結婚について、当初のプロポーズから出てこなくなった時に思い切って聞きました。

被告は、「大事にするから心配しないで。もっと自信をもって俺と付き合ってくれ」と結婚することは当然なんだと又、繰り返し言ってくれましたので、私は、被告を信じました。

(2)1995年、事務所のクライアント先の人に交際を申し込まれ、又、プロポーズをされました。

これに対して被告は、私をすごく怒りました。「自分と肉体関係にありながら第三者と結婚話をするなど、信義に反することだ」と責め、私が信義に反することをするなら、自分も誠意を持って付き合えないと、プロポーズされた人との交際を止めろと迫り、場合によっては被告と交際しているし、内縁関係にあることをこのクライアントにばらすと脅かしたのです。

私は、40歳を間近に控えて、自分の年齢を考えると、結婚して子供を持つという強い願望の前に時間がないという焦燥感がありました。でも、被告の怒りを見ると、私との結婚は被告も望んでいるが、思うようにいかないんだと思いました、私も結婚できると信じて被告との交際に精力と時間を費やしてきたこともあり、又、被告を怒らせることは恐かったのです。その上、交際を申し込んだ人が被告事務所のクライアント会社に勤務している人でもあり、万一、私と被告との事が明るみになってトラブルを起こしたら、仕事上も大変なことになると脅えました。

(3)この時、プロポーズしてきた人は、私を自分の親に紹介し、真摯に将来の結婚を考えていました。私は、子供を作りたい、温かい家庭を持ちたい、被告が離婚には時間がかかるというがいつまで待つのか、いつまで二人の事を隠し続けろと言われるのかと不安な毎日をずっと過ごしてきていたので、通常のように、二人の関係を隠すこともなく、堂々と交際できることが、どれだけ心を開放し、穏やかで守られた気持ちになるのか、この時つくづく思いました。

(4)たとえ今後、被告との関係について隠して結婚しても、被告自身が明らかにしてやるという意味の被告の今回の圧力で、被告以外との結婚の可能性はないことわかりました。勿論、被告からしか仕事をもらえない状況は全く変わりありませんでした。被告が怒るようなことをすれば、事務所にはいられませんから、この人のプロポーズは断りました。

他の人からプロポーズされても、結婚を前提の交際も、被告によって邪魔されるのだから不可能であるとも思いました。同時に、こんなに怒って私が他の人と付き合うことを止めるのだから、やはり結婚を私としたいのだと被告の結婚への真剣さを私は確信した思いでした。

7 しつこく結婚を迫ることは、上下関係で不可能

(1)二人で過ごすと言っても、被告は夜は必ず家に戻るため、落ち着いて将来のことを話したくても、一緒にいる時間は終始被告のペースで進み、結婚についての前向きな話をすることはできませんでした。

交際を始める前は、被告はとても優しく、私の意見や立場を尊重してくれるように思えましたが、一旦交際を始めると、二人でいる時は常に被告が「主人」で、私は従属する奴隷のような気持ちでした。私は、被告にとって、仕事上もプライベートにも支配され従属する関係になっていきました。

交際のきっかけは被告の結婚の申し込みですから、その後は私から、いつ結婚の約束を履行してくれるのかとか、一緒に使っているマンションの家賃は、何時から被告が支払ってくれるのかなどの質問の回答を何回も迫ることは不可能でした。遠回しに言うことは何回もありましたが、返事を迫れば、被告が結婚しないと言ったり、被告が私と会ってくれなくなるのではと思うからです。

被告が家に帰ると、翌日には私も実家に帰らなければならないので、急いで後片付け、洗濯、掃除をしなければならず、同時に「今日も被告とは二人の将来について真剣な話はできなかった。。。」と言う気持ちで本当につらく、毎日心が晴れることはなく、いつも一人で泣いていました。しかし、被告との交際については、第三者に知られないよう重々気をつけるように被告から強く言われていましたし、私自身も、被告からキチンとした結婚の話を進めてもらえないと言うことはある意味女として恥であると思っていましたので、「いつかキチンとできるまでは」という気持ちで、被告との交際を漏らすことは決してしませんでした。

(2)そうこうしているうちに、1996年に40歳になり、年齢的に考えて、本当に欲しかった子供のことはあきらめざるを得ないを徐々に覚悟していきました。40歳を過ぎてしまうと、新しく男性と交際する機会も少なくなり、また、交際を申し込まれても、結婚を約束している被告に嘘をついたまま他の男性と交際することは理不尽であり、してはならないことだと前の事例があったため、諦め、いつ被告は結婚をきちんとしてくれるのかと不安ばかりでした。どんどん年齢だけを重ねていくことで、心身ともに被告に従属した関係が強化されていってしまい、どんどん追いつめられていきました。

8 日興證券とのトラブルを全て私に押しつけ、責任逃れをする。

(1)このような毎日の中、証券市場もバブル期ほどではないものの段々と活況になり、外債発行の仕事で多忙な毎日の中、スイスフラン建て転換社債の案件で日興證券とのトラブルが発生しました。この件は、そもそも日興證券が野村証券の出した新型転換社債をまねて、かなり希薄化のおそれのある(転換価格の)下方修正条項を提案してきたことから始まりました。

(2)この件の発行会社側弁護士として、日興証券が被告を指名しました。希薄化は既存株主にとって重大な結果をもたらす条項であるため、本来であれば、指名を受けた被告が自ら発行会社と日興證券のジョイント・ミーティングに出席し、説明すべきだったのですが、被告から私一人で会議に出るように指示されました。会議に出てみると、日興証券の担当者は、未だ提案する新型転換社債の商品設計を詰め切れておらず、提案してきた契約書も重要な部分が未定のままでした。会議では、私から発行会社に対し、契約書の中で空欄のままの下方修正条項の部分を除いて、他の契約書条項の説明を行い、発行に伴い必要となる取締役会決議の内容、その後の手続きについて説明し、その場は終了しました。

(3)この会議で日興證券が提案した契約書の内容(転換社債の転換条件その他の発行条件が定められています)と、その後の日興證券の手続きについては、問題ある案件でしたので、今でも覚えています。下方修正条項とは、転換社債を社債の発行後に株価に合わせて安く修正していくものであるため、過度に希薄化をもたらすという点で適正性の評価も分かれていました。これは私の推測ですが、日興證券が契約調印日ギリギリまで内容を固められなかったのは、この新型転換社債の希薄化についての適法性に自信が持てなかったからではないかと思います。あくまで引受証券会社の提案が適法であることを前提で手続きが進んでいきましたが、私から被告へは、契約書のドラフトが改定される都度報告していましたし、日興證券の提案内容がなかなか決まらなかったことも報告していました。被告自身は無関心でした。

(4)契約調印日の直前となり、ようやっと下方修正条項が提案されてきましたが、結局、その内容は野村証券の案件とほぼ同じようなものであったと記憶しております。この契約書ドラフトの内容に従い、発行会社の取締役会決議の内容を起案したのは私です。この時の作業記録が当時残っていましたが、議事録を起案した時点の契約書ドラフトは、私が作成した議事録の内容と一致しておりました。

(5)その後、転換社債発行から2年位経って、この転換社債を購入したCitadelというヘッジファンドから発行会社に問い合わせが入り、転換権の行使によって交付された株式数が、英文の契約書の条項に従い算定した株式数より大幅に少なく、その結果約5700万円の損害を被ったとのクレームがなされました。発行会社は、直ぐに被告に電話し、このような損害が発生したのであれば、取締役会決議(これを基に発行会社は転換により発行する株式数を算定します)と、契約書の転換条項の内容に齟齬があるからであり、担当弁護士として早急に解決すべきであると主張されました。

しかし、被告が「詳細は森に確認する」と言って一旦電話を切った後は、この問題の窓口は全て私が担当することになりました。その時、被告が私に言った理由は、被告が窓口になると、事務所全体に損害を及ぼす可能性があるので、対外的にはすべての責任は森にあるということで、何とか乗り切ってくれということでした。

(6)私は、自分が取締役会決議の案を作成した時点で、日本サイド(発行会社)がもらっていた契約書ドラフトを保存していましたので、自分の手続きに問題はないと確信していました。

通常時であればシニアパートナーである被告が対処し、ジュニアパートナーである森が直接クライアントから依頼を受けることは禁止されているにも拘らず、なぜ、今回に限って私が窓口として対応しなければならないのかと、不安でなりませんでした。

しかし、被告は、二人でマンションであっているときに、「自分は事務所のトップだから何かあったら事務所全体を巻き込んでしまう、本来、発行会社の弁護士に責任を負わすような問題ではなく、スイス側で日興證券がミスしたのだから、順子先生が責任を問われることは無い。当面、事務所トップを守るということで順子先生が窓口になって欲しい」と言ったため、仕方なく被告の指示を受け入れました。私の当時の本心としては、納得いかない部分もありましたが、結婚相手となる被告に何かあったら二人とも大変になる、是非被告の立場は守りたいと被告に応えて、私が対応するというやり方を受け入れることにしました。まさか被告の責任逃れの為とは疑いもしませんでした。

(7)日興證券は当時、米国証券会社のソロモンの傘下に入ることが決まっており、推測するにソロモンからデューディリジェンスを受けていたか、買収交渉に入る段階にあったのではないかと思います。日興證券の担当者は、いきなり被告と私との会談を申し入れ、全ての責任は当時のあさひ法律事務所にあると主張してきました。この日興証券のあさひに対する攻撃は、株価が下がるにつれ(株価下落によって、投資家の損害がさらに広がる状況であったため)どんどん激しくなり、仕舞には、日興証券の専務と常務がいきなり事務所に来て「責任を取らないのであれば、今後一切、江尻弁護士には仕事は出さない」とメッセージを残して帰りました。

(8)このような混乱の中、ことは事務所内でも次第に騒ぎとなりました。私はマンションで被告とあっているときに、何時になったら事務所でこの問題をきちんと説明できるものか、私たちに何の過失もないことを公けにするのか、私自身は正しいことしかやっていないのに、いつまでも理不尽に責められるのもおかしいので、被告に聞きました。しかし、私の質問には被告は答えてくれませんでした。

9 日興證券の件をすべて森のせきにする嘘、被告との結婚を考える私を騙して、責任を取らせて私を退職に追い込む被告

(1)その後のパートナー会議で、突然、被告が私に向かって「これから日興證券の問題をパートーナーに説明するので、森さんは席をはずして」と言いました。このパートナー会議で被告が「全て森のミス」と説明したとは夢にも思いませんでした。むしろ、その時は被告は近い内に結婚する大事な人と思っておりましたので、このようないいがかりをつけられたということが問題で、それを阻止できなかった自分に腹が立ち、被告に申し訳ないと本心から思っていました。ただ、私が申し訳ないと思ったのは、自分が担当しながら被告を守れなかったという意味であって、仕事でミスをしたということではなく、愛情から被告をかばってあげたかったのに、結果として出来なかったということに尽きます。事実、日興證券との間での調停でもその通り主張しました(2人の交際の件は言っていません)。

(2)しかし、パートナー会議で被告が話をしたのちは、他のパートナーは私に殆ど口も聞いてくれなくなり、仕事をしていても針のむしろのようでした。

被告とマンションで会っているときに、私が「私からもパートナー会議で日興證券の件を説明したうえで、事務所を辞めたい」と言うと、被告は「私からすでに説明しておいたから、森さんから言うことはない。辞める前に客員で残るという道もあるし、今は事を荒立てない方が良い。私は事務所の長だから責任を被るわけにはいかないので、申し訳ないけれど対外的には君が全て担当したことにして、事務所内ではの後のことは君の立場をしっかりと守るから心配しないで」と言っていました。今考えれば、被告は私が自分との関係をパートナー会議でしゃべると誤解したのかもしれませんが、私にはそんな元気もありませんでした。ただ、対外的には私が全責任を負うしかないんだな、そうしないと被告との結婚の話も壊れるんだなと思い、黙っているようにも言われると、うなずくしかありませんでした。

(3)その後結局、事務所内では、全てが私の責任ということになり、事務所には居られず、被告に辞めることを伝えました。そのあとから事務所の他の弁護士が私のファイルや、経理関係書類を、私に何も言わずに色々と調べ始め、私が事務所に配分する報酬についても計算の検証が始まりました。しかし、私は事務所を辞めるに際して、全て事務所に支払って精算し、担当パートナーからも最終的には問題ないとの確認を取っています。今回、訴訟で言いがかりをつけられ、本当に驚き呆れました。私の名誉を二重に毀損するものです。

(4)私の人生の中で、この時ほど辛い時期はありませんでした。職を失い、友人の信頼も失い、生活の不安と行き場のなさで、一時は真剣に死ぬことも考えました。被告は「順子先生が心配だから」と言って、その時はいつもより優しくしてくれたので、被告のことは信じていましたが、今考えたら、自殺でもされて遺書でも残されたら迷惑だったのでしょう。私は騙されて、優しいのだと被告を信じていたのです。

10 被告に罪をかぶされ、再就職も不可能

(1)上記のような経緯で、あさひ法律事務所を1998年に辞めさせられた後、私は一時期研修所の担当指導官(検察)だった丸山弁護士の事務所にお世話になった後、長嶋大野常松法律事務所に採用されました。採用されたのち間もなく、長嶋大野のマネージングパートナーであった原弁護士と数名のパートナーに呼び出され「森さんが過去に日興證券の件でミスを犯して事務所を首になった」という情報が入ったと言われました。後で確認すると、被告の方からの情報でした。「噂が立つということ自体、当事務所にはふさわしくないので辞めてもらいたい」と言われました。私にはもう再起は無いのかと絶望しましたが、長島、大野、常松法律事務所は1か月後に辞めることになりました。しかし、仕事をしないで暮らしていけるわけではなく、本当に困窮してしましました。

(2)その当時は三宅省三先生がご存命であったので、三宅先生に相談に行きました、三宅先生は、私が弁護士1年生のときに当時のボスの友常先生から紹介され、以後かわいがって頂いていましたが、あさひ法律事務所に所属している頃から、「森さん、これからは渉外弁護士も倒産をやる時代だよ。頑張ってみたら。」と励ましてくださり、破産事件のレクチャーをしていただき、破産部の部長にも紹介してくれました。これが縁で、あさひに在籍していた時から管財人の事件をいくつか担当していましたが、長嶋大野を首になった時に、三宅先生が坂井先生を紹介してくださり、以後独立するまで坂井・三村法律事務所で倒産事件を中心にやって生活を立て直すことができました。三宅先生を紹介したり、知り合った経緯に被告は一切関係していません。

11 経済的苦境を招く、①退職と②二世帯住宅と③マンションの家賃の支払い

(1)2000年頃、私が40代半ばになると、父は80歳代後半、母は70歳代後半という年齢となり、唯一の兄弟である弟はすでに結婚して独立していたため、独身で両親と同居していた私が老後の面倒を見るのが必然的なようになりました。当時の両親の家は、都心まで小一時間かかるため、両親の介護と仕事を両立させる自信はありませんでしたので、大学病院に通い易い立地に引っ越そうと両親は希望していました。

両親と共に都心に引越するため、高齢者が住みやすい平屋の一戸建てを建てるか、同じマンションに私と両親が別々に隣り合わせの物件を購入して事実上同居するかを両親の希望と検討しましたが、両親の没後に弟と相続問題でもめるようなことはしたくなかったので、両親の没後に売却し易い、隣り合わせのマンションを2戸購入するのがベストであると両親は思っていたし、私もその方がよいとは考えていました。

(2)その場合の購入資金としては、その当時の私の現預金(約8000万円)と、両親がその当時居住していた両親所有の郊外の一戸建てを売却して得る資金を充てることとし、基本的には手持ちの現金で購入する予定でした。このように、私と両親の引越の契約としては、双方共に借金をせずに、あるいは最小限の借入金をもって、病院へのアクセスの良い都心(文京区など)に、マンション2戸を隣り合わせで別々に購入することとし、2001年頃から物件探しを始めていました。具体的には、汐留タワーマンション、アトラスタワー小石川、文京小石川シティタワー、シティハウス文京目白台、サンウッド目白台などを内覧したメモが残っています。

(3)そのうち、新築マンションで隣り合わせの2戸が購入できるサンウッド目白台にほぼ両親が乗り気だった折に、被告から、「順子先生と一緒に暮らすマンションを探している」という話があり、事態は急展開してしまいました。

(4)私が土地を購入する1年くらい前のことなので、2001年頃、被告と池之端のマンションで過ごしている時に、訴状に記載のとおり、被告から2人の生活のために被告が逗子にマンションを購入するという話がありました(訴状の記載の時期は2003年ですが間違いです(P18の4行目))。

私は、それまで被告が結婚後に私の両親と同居を嫌がるのではないかと思う一方、子供を持つということを諦め、これまで長い間待って、犠牲を払ってきたのだから、少しは私の希望を言ってもよいだろうかとも思い、被告から逗子のマンションでの同居の話があったのを契機に、両親と文京区当たりに引越を考えていることを打ち明けました。おそるおそる言ってみたのに、被告はあっさりと、できる限り両親の生活から独立した形で、2人で暮らすことを前提に両親との二世帯住宅を建てることを承知してくれました。私は本当に嬉しかったです。これで両親の面倒と結婚が一歩進んだと思いました。

(5)マンション二戸を購入するプランから、二世帯住宅の建築プランに変更した結果、予算は2倍以上に膨らむことになりました。この建築資金については、例のごとく、被告は当面ばれると離婚が難しくなる、資金は出せないということだったので、早く離婚してもらい、私と結婚するためにも、自分でなんとかしなければなりませんでした。

両親に資金援助をお願いすることはできたのですが、それでは、両親の没後に弟との間で相続財産として分割しなければならなくなり、私と被告の住居なので、生活の基盤が安定しないのはまずいと思いました。だから、私名義で資金調達しなければならなくなりました。全て被告と結婚して住むためなのだから、後日被告が出してくれるから大丈夫だとは思いましたが、当面は自力で何とかするのは大変でした。でも、私と被告の2人のために頑張ろうと、浮き立つ気持ちもありました。

(6)両親の介護問題と、当時、被告のために借りていたマンションの掃除・洗濯などをこなしながら、夜遅くまで仕事をする生活は限界に来ていましたので、早急に二世帯住宅を建築しなければと、私も身体的にも精神的にも追いつめられていました。とにかく、早く2人で生活できる、ようやく結婚できると私は頑張りました。

(7)資金のことでどうしようか悩んでいたところ、被告がクライアント関係で東京三菱銀行(当時)の虎の門支店に知り合いがいるということで、担当者の山田氏を紹介してくれました。

(8)①被告紹介の銀行担当者の紹介で、②現在居住している土地を探し、事前に被告と一緒に土地を内覧して、購入を決めました(甲10 不動産売買契約書)。③また、建築にあたっても、請負業者である三菱地所ホーム(株)と契約する前に、工事請負契約書(抜粋、甲11)の平面図を事前に被告に見せ、被告の了解も取りました。④この平面図に記載のとおり、2階はキッチン・バスルームなどの水回りを独立して設置し、寝室、リビング・ダイニングと家で被告が仕事をするときのための書斎も設置しました。⑤また、北立面図にもあるとおり、被告が両親と顔を合わせずに外出できるよう外階段と2階玄関も設置しました。⑥被告が住みやすい、住んでよかったと思える家を作ろうと私は必死でした。だから、予算も膨らんでいきました。

(8)前述の通り、土地を探すにも被告に同行してもらい、不動産屋にもいっしょに会ってもらいましたし、建築会社の設計図面を見せながら、話を進めました。こうした過程は他の人もみています。被告が離婚したときに私の両親に遠慮することなく暮らせるように、私としては予測しなかった、かなり無理な予算で文京区に二世帯住宅を新築しました。

(9)しかし、被告からは、離婚したとか、その後一緒に暮らせるという話もでず、かと言って私と会うのを止めたわけではないので、やっぱり私名義でマンションは借り続けなければなりませんでした。しかし、二世帯住宅のローンを抱え、それまでのような出費は私の収入ではできないため、被告に保証人となってもらい、マンションの家賃の一部を支払ってくれるよう頼みました。これに対し被告は、「俺の方は印鑑も秘書に管理してもらっているし、保証人になって人に関係を知られると困ることになる、本当は俺が保証人になってやりたいけど、自分で何とかしてくれないか」と言われ、目の前が真っ暗になりました。それまでも、家賃や家具・電化製品をそろえる費用は私が一人で負担してきましたが、この時は流石にもう限界と思い、家賃だけでも負担してくれないかと申し入れたところ、家賃1年分の半額をようやく支払いました。二人で使う場所ではあるものの、このようなマンションを借りる理由は独身の私にはないのに、どうしていつも半分なのか、納得はいきませんでしたが、被告は「順子先生が金で僕との付き合いを判断するとは思わなかった」と言われてしまい、被告に結婚の約束を今更破棄されるのが怖くて我慢せざるを得ませんでした。

(10)土地の購入資金すらも手金では足りなかったため、前述のとおり、被告の紹介で東京三菱銀行から5000万円を借り入れました(甲13の1)。この借入条件は、建物の建築請負契約を締結できるまで、当面10年返済のローンを組むということで銀行から申入れがあり、その後、建物建築請負契約を締結したので、2003年3月にローン取引の条件が20年に変更されました(甲13の2)。この土地のローンについては、2008年に約2000万円を繰上返済し(甲13の3)、その後2012年7月末に残りを完済しています(甲13の4)。この繰上返済は共に手持ち資金から支払っています。

建物の建築資金については、2003年4月までに父から1000万円借りて、手金の1000万円と合わせた2000万円を第1回、第二回の内金として支払いました。2003年9月の竣工時には、銀行から4000万円を借り入れして(甲14の1)、残りの請負代金2252万5000円と外構工事の484万500円(甲12)の合計2736万5500円を支払い、残額は父からの借入金1000万円の返済に充てました。この建物のローンについては、2004年7月に約2500万円を繰上返済し(甲14の2)、その後2005年5月に残りを完済しています(甲14の3)。2004年7月の繰上げ返済にあたっては、父(森徹)から1500万円借り入れてその一部を充当しました(甲18)が、その後、返済しています。

(11)この土地と建物のローンの返済表契約表(元本と利息の月次支払額が明記されています)は、甲15と甲16のとおりです。ローンの完済までに支払った金利の合計額は、土地ローンについては597万5537円、建物ローンについては82万6499円、父からの借り換えのための借入利息が106万8582円で、合計787万618円となります。

12 海外出張費用と全て負担しての経済的苦境

また、話はあさひでのアソシエート時代にさかのぼりますが、被告と泊りがけで海外旅行できるのはIPBAという環太平洋弁護士協会の年次総会に行くときだけでしたが、いつもこの費用は自分持ちで、私のアソシエートの当時の収入(年収400~500万円)からすると苦しいことでした。被告と結婚していれば、海外に行かなくても一緒に居られるのに。。と思うと納得はいきませんでしたが、被告に対して「費用を出して」と言っても叶わないことでした。このように、被告に対しては経済的にいつも私の方が負担させられましたが、被告と大きな年齢差があり、ボス弁であるのはパートナーと名ばかりになっても同じでしたので、何も言えませんでした。結婚したいのは「僕のお金をねらっている」と、被告は被害者意識の強い人でしたので、思われたくありませんでしたから、被告に対して金銭的不満をぶつけることがどうしてもできませんでした。

13 被告が一方的に関係を切ろうと画策、強欲な被告は経済的負担が出てきたから関係を切る。(1)二世帯住宅完成後に、私の方は、二世帯住宅を建築してローンの支払でどんどん経済的に苦しくなり、どうしてもマンションを維持する経済的余裕がなくなりました。思い余って「私はもうここの家賃は出せないのだけど、先生(被告のこと)はどうしたいですか。先生が家賃を払ってここを維持するか、マンションは解約するか、決めて欲しいのだけど」と恐る恐る申し入れると、被告は「二人でマンションで会う方がホットした時間を持てるけど、定期的な出費となると身内にもばれる可能性もあるので、マンションは引き払ってどこかホテルで会おう」と言われてしまいました。この時はもう50歳近くなり、精神的にも被告を説得する元気はなくなっていましたので、被告の申し出に従い、その後はベイエリアのコンチネンタルホテルで密会するようになりました。

(2)このような状況は私としては本当に情けなく、益々つらい思いでした。被告の方も前々からとにかく経済的負担を嫌っていたので、ホテル代を出すのも面倒だったのでしょう。だんだん会う頻度が少なくなってきました。そして、いつしか、携帯にメールで連絡しても返事がなくなり、留守電にメッセージを残しても「今は事務所の海外支店を設置するので忙しいので、落ち着いたら連絡する」というメールが来るだけの状態になってきました。

(3)2007年に独立開業しましたが、51歳になり、被告との交際で仕事の幅を広げる期間も短いままに、リーマンショックを契機に私がやっていたような仕事が減り、経済的に苦しくなってしまいました。その当時はまだ頼れると被告を思い、経済的支援を含めてアドバイスを頼みたかったのですが、被告は2011年頃から上記のように、言い訳をつけては会うのを拒むようになり、このように会うのを拒否されているうちに、私が長年にわたり2人分の交際の為に経済的な負担をして、結婚を前提に家まで新築したのに、余りに冷たいのではないか、被告が何事もなかったようにするのかと思うようになりました。被告との関係が終わるのを恐れて言いなりになっているうちに、一方的に連絡を絶たれ、さすがに理不尽であり、2人の将来についてきちんと確かめる勇気も出てきました。

(4)そこで2012年7月20日付で被告の事務所に親展の文書を届け、中立的な第三者を立てて話し合いをすること、5000万円を貸し付けていただくことを申し入れました。

(5)これに対し、被告は一方的に自分の弁護士として堀内弁護士を立て、堀内弁護士は事もあろうに私の事務所にファックスで「私が被告に対して謂れのない金銭的要求をしている」と通告してきました。このファックスが来た日は私は出張で不在でしたので、事務所の同僚弁護士とスタッフが見てしまい、本当に心配をかけてしまったとともに、事務所の経営者として修復しがたい恥をかいてしまいました。

(6)その後、堀内弁護士と1度あって面談しましたが、堀内弁護士は「江尻さんからは森さんとの交際については何も聞いていない。だけど、このような要求が来るということは『交際していたんだろう』と江尻さんに言ったら否定していましたよ。森さんは謂れないストーカー行為をするなら、あなたのご両親にも話さないといけないし、悪くすれば刑事問題ですよ」と言っていました。私としては、被告が結婚の約束を果たす気がないばかりか、自分が依頼した弁護士に私との関係を認めなかったというのが、一番つらかったです。20年以上、結婚するということで我慢してきたのはなんだったのか、婚約解消するとしても、私と向き合って自分の口でハッキリと言うべきではないか、と思いました。こんな終わり方は私には辛すぎますし、被告には誠意のかけらもなかったのかとこの時初めて被告が私との結婚について実は真剣に考えていなかったのではとショックを受けました。

(7)堀内弁護士とのこのショッキングな面談で、このような被告の対応(私との20余年の否定)では、支援というのではなく、その代り、これまで私が交際を続けるために出した費用を全部精算してほしい旨を申し入れましたが、この時でも私は被告との結婚に未練がありました。情けない話ですが、直ぐに幸せになれなくとも、死ぬまでには一度は結婚したいと思っていましたし、被告とこんなに長く結婚を前提に交際したので、最早、他の人との結婚などありえませんし、事実この年ではやり直しはきかないところまで来ていました。また、心のどこかで私は被告から愛されていると思っている部分がありましたので、被告がいきなり弁護士を立ててきたことがショックであり、また、被告が私との交際を全く認めていないこともショックであり、このまま終わってしまったらどうしよう、被告と訴訟になったら悲しいなど、気持ちは乱れました。

(8)堀内弁護士と会ったのはこの1回限りです。私はこの堀内弁護士の事務所への醜いFAXと面談で、堀内弁護士に言われたことで精神的に追い詰められてしまいました。堀内弁護士との面談で「私の同期で秋田先生という人がいて、このような問題では一番頼れる有能な人なので、いずれこの人に相談する」と伝えました。秋田弁護士は生憎海外出張で話ができないうちに、その日の夕方、堀内弁護士から私の携帯電話に、「被告が森さんの提案の金額を支払うと言っている。早急に振込先の口座番号を知らせてほしい」と電話がありました。この時、私は依頼者との宴会の最中でしたので、そのようにしますとだけ言って直ぐに電話を切りました。この時点で堀内弁護士が言った「森さんの提案の金額」がいくらなのかわかりませんでしたし、この金額を支払うという被告の意図については何も知らされていません。私自身、とにかくお金を支払うというので、振込先を伝えただけで、和解などした覚えは全くありません。

(9)詳しく言うと、7月25日の17時30分から、私は依頼者B社の担当者と料亭の個室で会食していました。その最中に、堀内弁護士から電話が入り「江尻さんが森さんの要求通り支払うと言っているが、支払うにあたって、何も書面に残さないのが条件である。それでよければ至急振込先の口座番号などを知らせてほしい」と言ってきました。私は、依頼者がいる部屋での会話

なので、「そうですか。わかりました。連絡します。」としか言えなかったし、その時点で個室の外に出て長々と会話したりもしませんでした。

このとおり、私が被告からお金を受領することに合意したのは事実です。しかし、これはとりあえず受領することについての合意であり、それ以外に残りの権利を放棄するとも言っていないし、それで満足だとも言っていません。

この交渉過程において、被告は書面を残さないことを何度も条件として強調していましたが、これは、私との間の交際関係を第三者に知られたくなかったことの一点であり、1700万円の支払いが被告の私に対する賠償金の一部の意図であったのだろうと思います。

なお、私がこの金額を受領したのは、被告がこの期に及んで、私に対して男女関係があったことすらも堀内弁護士に否定していたからです。今後の紛争解決のために、被告が賠償金の一部を支払った証拠を残したかったためでもあり、その余の請求を放棄する意図は全くなかったし、事実放棄の意思表示もしていないのです。

14 被告の人格

(1)被告の支配欲

①被告との交際を始めるにあたって、私は被告に対し、自分は結婚して子供を持ち、普通の家庭を早く持ちたいことを明確にしています。被告も私のこの意思を尊重してくれるということで、不倫はとんでもないと被告自身も言って、交際が始まりました。でも、だんだんと私の意思を無視し、私の行動を支配しようとするようになりました。

②この支配は、一方的に私に経済的負担を負わせつつ、この経済的負担が結婚という目的のためには避けられないものであることを強調することによって継続されてきました。また、肉体関係を継続することにより、私が他の男性と交際を始めることも阻止し、結果として精神的にも従属関係を強いてきました。

③このような被告の支配欲は、私とのプライベートな付き合いだけに限りません。

桝田・江尻法律事務所を立ち上げた当初は、桝田先生の方が被告よりも経済的にも、依頼者からの信頼という面においても、優れていると評価されていました。このような関係は被告に劣等感を持たせる関係であり、耐え難いものであったと思います。桝田先生が離婚・再婚を契機としてニューヨーク事務所に開設して常駐されることについては、被告も全面的に支援すると言っていたにも拘わらず、暫くして事務所経営が経済的に苦しくなると(売上の大幅減少によります)、桝田先生には何も言わずに東京八重洲法律事務所との合併を決め、桝田先生が東京に戻る機会を奪いました。

④この東京八重洲と被告の間も次第におかしくなり、今度は被告より一層の利益拡大を求めて、西村総合との合併を画策しはじめました。当時私が、事務所経営が苦しいわけでもないのになんで合併するのと聞くと、被告は「俺の力が誇示できるようにするためには、勉強はできるが、経営能力のあるパートナーが居ない西村との合併が最適なんだよ」と言っていました。東京八重洲出身の弁護士が合併に意を唱えると、被告は外部に対し「東京八重洲との合併は、うちにとって思ったほどメリットはなかった。能力が無い人たちには応分の援助をしてやって別れた方がいい」と桝田先生を追い出す為に利用して、合併した東京八重洲なのに、今度はこれを使うだけ使い、桝田先生がいない状況でも成り立っていくようになると、西村に乗り換えると言っていました。自分の権力と利益の追求に貪欲で、いくらでも利用しつく性格です。

(2)女性差別

①被告は(失礼ながら)容姿がさほどでもないにも拘わらず、女性の人気はありました。それは、周囲の人たちに対してフレンドリーだし、しょっちゅう人を笑わせて楽しませる才能にたけているからだと思います。しかし、その裏には、女性に対する蔑視が色濃く反映されているのです。

②そもそも、私が事務所に入って、証券会社の担当者に紹介するときには、必ずと言っていいほど「森さんは女性だけど頑張っている、アシスタントとしてはとても有能だよ」と言っていました。「女性だけど」とか「アシスタントとして有能」とか、必ず自分の下に女性がいて、アシスタントとしては有能なだけの私がいるということを誰に対しても誇示しました。

③私が事務所に入ったときは、小泉先生という大御所の女性弁護士と、私より期の若い黒柳さんと、現在被告代理人の鮎沼さんが所属していました。

被告はいつも、黒柳さんと鮎沼さんを比較して「黒柳さんは美人だし、色気もあるし、しかも頭もいいなぁ。それに比べて鮎沼さんは容姿もいまいちだし、能力もはっきり言ってレベルが低いよ。幸い結婚しているから、どんどん子供を産んで、かあちゃんとして頑張っていくのが一番だよ。」と放言していました。私は、これを聞いてびっくりしました。そもそも容姿で二人を比較するのも失礼な話ですし、鮎沼さんが能力がないとか、子供を産むしか能がないとかいうのも完全なる女性蔑視の発言だと思いました。

この発言は私とのプライベートな会話だけでなく、事務所内でも有名な話で、被告は美人で頭のいい黒柳さんを気に入っていたのも周知の事実です。ただ、このような女性差別の発言も私以外の前では冗談を紛らせてオブラートに包んだ表現でしたので、事務所内ではさして顰蹙を買うこともありませんでした。

「能力がない」とか、「容姿がいまいち」だとか、「子供を産んでいればよい」とか散々けなしていた鮎沼さんに、被告は本件代理人を頼んだということで、私は二重に驚きました。

(3)自己中心的性格、責任逃れがうまい。

①被告は、支配欲を実現するためには色々と策を弄する人ですし、事実、これまでの事務所経営のなかで、二度も合併を成功させたのは被告の力量の結果だと思います。他方、問題が起きると、問題の根幹を分析することはせず、自分が傷つかないように慌てて他人のせいにし、逃げることに長けています。

②日興證券の件でも、役員が押しかけてきただけで慄き、自分は別の会議があると言って一切を私に押し付けましたが、調停でも、何とか早く日興證券の矛を収めさせようと躍起になるばかりで、我々の責任について反論し、クライアントである発行会社を守ろうという姿勢はありませんでした。弁護士賠償責任保険の保険会社も、調停委員も、なぜあさひ法律事務所(当時)に責任があるのかわからないと言ったほど、本来であれば、日興證券(スイス法人)の問題であることは明らかであるにもかかわらず、今後は仕事を出さないと言われるとすっかり怯え、一切の責任を森にかぶせて終結させようと躍起でしたが、このような責任の所在をあいまいにしたままの解決が問題の真の解決にならないのは明らかです。

③桝田・江尻のニューヨーク事務所についても、当初は桝田先生の常駐に賛成したのが、桝田先生不在の事務所経営が被告の力では苦しくなると、「桝田さんは俺一人に責任を押し付けて、ニューヨークで楽しくやっている」と公言し、経営不振の責任を全て桝田先生に押し付けて、ついにはパートナーとして排除するという手段を取りました。

④また、その後、組んでもうまくいかないと、他のパートナーに対しても、自ら経営について全責任を追うことなく、業績不振を一部のパートナーの自己責任として、多額の経費を負担させ、結果として借金まみれにしたうえで辞めざるを得ない立場に追い込みました。

⑤東京八重洲(現あさひ)法律事務所に対しても、当初は三顧の礼であさひには国内部門の優秀な先生が必要であると招き入れたにも拘わらず、丸の内移転など事務所経営に問題が生じると、東京八重洲の弁護士は期待したほどの能力はないと責任を他者に転嫁し、結果として対外的には自分たちが庭山先生、浅岡先生を始めとするあさひ法律事務所を経済的に支援していると嘘を言いふらしたうえで、西村との合併に及んでいます。こうして事務所の規模を拡張して、自分の権力を拡張していったのです。

(4)他人の仕事もとる、欲深さと政治力

①被告は少しの努力で世間の目をひく案件を担当し、同時に大きな経済的リターンを得るのが大好きです。

②元々目端のきく人なので、外債弁護士の世界では容易に頭角を現しました。私も専門だったので言えるのですが、外債専門の弁護士は、所謂証券会社が国内案件で弁護士を使わずに処理する発行手続きを、英語に置き換えて行うだけの作業で、その意味で英語が得意であればそれほど有能でなくてもできる仕事です(誤解を恐れず簡略化して説明しています)。つまり、たいして頭が良くなくても出来る世界から被告はスタートすることが被告の”商才と小才”なのです。

また、被告はM&Aも専門とされていますが、これも大事務所で多数の有能な若手がいればそれほど苦労しなくともこなせる仕事です。むしろ、短時間で膨大な資料を検討しなければならないという意味で、若手弁護士の方が能力を発揮できる仕事です。実務は若手がするのです。被告のように有名な弁護士がトップにいた方が、最終局面での難しい交渉などにはったりや格好がつくということはありますが、それ程、弁護士として汗水たらす必要はありません。こういう自分では仕事はしないが、虚名で乗り切るのは得意です。

③証券不況が長引き、M&Aも企業再生ものが主流となった時期、山一の倒産、長銀の破たんの頃から、被告は「自分も倒産案件を手掛けたい」と私に話すようになりました。そもそも、私は中途採用であることと、被告の方針によって、事務所内では外債発行以外の仕事をもらえない状況だったため、やむなく三宅先生の紹介で倒産を始めましたが、被告は世の流れをみて、私の様子をみてこれからは倒産は儲かると鼻をきかせたのです。

この被告の欲深さが大問題に発展したのがマイカルの件です。被告は以前からマイカルの顧問弁護士でしたが、マイカルが清水直先生の指導で会社更生の申立てを準備していると知り、被告の親しい役員から相談を受けたのをきっかけに「順子先生、僕もマイカルで倒産弁護士としてデビューするよ」と言いました。これだけの大規模倒産を何の経験もない被告のような弁護士が担当するのは危険すぎると思ったのですが、私は逆らうことはできませんでした。ただ、被告も賢いので、自分の力ではできないことは十分知っていて、私に対し、当時所属していた事務所のボスである坂井先生に話を持っていくと言い始めました。そこで被告は、坂井先生、腰塚先生らを呼び、マイカルが民事再生を申立てたいと言っているので協力してほしいと申し入れました。坂井先生達は清水先生の会社更生申立の件を知っていたので、当初は難色を示されましたが、被告の説得に負け、結果として会社内でクーデターを起こすような形で民事再生を申し立てたのです。

しかし、被告の様な口ばかりの素人が弁護団にいたのでは手続がうまくいくはずもありません。その当時被告は私に電話してきて「坂井さんと瀬戸さんが俺に何も言わずに勝手に進めちゃうんだよなぁ。やってられないよなぁ」と愚痴っていました。その後、マイカルの件は、被告が手続きを全く知らないのに弁護団を俺が俺がと主導しようとするため、そうでなくとも大変な案件がうまく進まなくなりました。結果として被告は破産部の裁判長の園尾部長(当時)から辞任を促されました。

15 最後に

(1)20余年に亘る交際の間、葛藤しない日はありませんでした。被告が言っていた私との結婚のことはいつ具体的に提案してもらえるのか、心配しながら、回答を迫ってしまったら、全てが壊れてしまうのではないかと、いつも泣いていました。

(2)この訴訟を提起するに当たり、私には大きな迷いがありました。何もせずに、全て辛い思い出は封印しようとも考えましたが、20余年間の被告の約束は何だったのか、始めからだますつもりで関係を持ったのか、そうであれば、私のこれまでの辛酸は意味がなかったではないかと思うと耐え難いのです。残り少ないとはいえ、これからは秘密を抱えて苦しんできた20余年を終わらせ、自分の人生を取り戻そうと考え直して訴訟に踏み切りました。

(3)この訴訟の過程においては、私が思いもよらなかった事実、すなわち被告が日興證券の件を全て私のミスと言っていたこと、事務所を辞めるにあたって他の弁護士となるべく接触しないよう色々画策する一方、パートナー会議では私が売上を誤魔化したなどと言っていた事実を知りました。二重、三重に汚された自分の名誉を取り戻すためにも、私が20余年の間に被告から見聞きした事実を述べ、このような訴訟になった本質を明らかにしたいと思います。

(4)被告との交際が始まってから、連絡が取れなくなるまでの約20余年の間、子供を持つことを諦め、他の人と結婚することも諦め、年を重ねていくほど、人生の選択肢はなくなり被告との関係を維持することが精一杯でした。人間というのは人生を諦めるというのは容易ではなく、50代になっても「結婚したい」という願望を捨てきれないまま、私自身、被告との関係にがんじがらめのままでした。家庭を持って、親も安心させたい思いもあり、私自身、どんどん気持ちが追い詰められていきました。どんどん辛さは増していくのですが、長くなればなる程、被告に対しておかしいと声を上げることも難しくなるのです。「このまま一人で将来どうなるのだろう」「私は子供を持ち、子供と一緒に成長していくという経験が無いのだから、他人から見たら欠陥人間ではないだろうか」と葛藤ばかりの20余年をきちんと見直したいと思っています。

そして、被告にとって責任、信頼とか誠実というものについて、どう思うのか、私が費やし、捧げてきた自己犠牲を何とも思っていないのかを確かめたいのです。

以上

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