ここに医療の世界に革命を起こした一人の風雲児の物語がある。
奄美群島の徳之島出身、徳田虎雄氏は幼少期に実弟を亡くす悲しい経験をしている。当時、貧しかった家庭のため医師の往診を受けられず、弟は命を落とした。これがきっかけで、徳田氏は医師になり、誰もが平等に医療を受けられる社会を作ることを決意する。
大阪大学医学部を卒業後、徳田氏は1973年に自身の生命保険金を担保にし、大阪に「徳田病院」を開設する。これが後の医療法人「徳洲会」の始まりだった。
当時の日本医療界は閉鎖的で、患者中心のサービスが欠けていた。開業医は休日や夜間の診療を渋り、大学病院も負担の大きい救急患者を受け入れない状況だった。
〜「命だけは平等だ」というスローガンの名のもとに〜
そんな風潮に革命の旗を振り、1975年から、徳田氏は次々と病院を開設していった。
年中無休、24時間診療を当たり前とし、患者から贈り物は貰わないといった現代で言う大型病院を次々建設していった。今で言う当たり前を築いたのが正に『医療界の革命児』たる徳田虎雄氏である。
2023年現在、徳洲会は76の病院、300を超える施設を擁する日本最大の民間病院グループに成長した。職員数約4万人、年商5,300億円を超える医療インフラを一代で築き上げた。
患者中心の医療を実現する徳田氏の情熱は、能登半島地震直後の2024年1月、被災地への医療支援団体”TMAT”(Tokushukai Medical Assistance Team)」の派遣にも現れている。
86歳で、入院先の神奈川県の病院で天に召された徳田氏だが、その精神は徳洲会に受け継がれている。
徳田氏は「(この世には貧富の格差や差別はあるが)生命だけは平等だ」「年中無休、24時間診療」と声を張り上げ、関西、九州・沖縄、関東などの「医療沙漠」と呼ばれる無医地区に病院を建てていく。
徳洲会が進出する地域の医師会は、“メシのタネ”である患者を奪われると怯え、自治体に圧力をかけてその計画を潰そうとした。
徳田氏の各地への積極的な病院建設は、地元医師会の激しい反発も招いた。鹿児島県鹿屋市では病院建設に反対して、子供の予防注射をボイコットするという事態も起こった。
だが、地域の住民は医療を渇望しており、徳洲会は民意を受けて病院の建設用地を確保する。各地で医師会と激闘をくり広げた。
そのような中、医療改革には政治の力が必要だとして、1983年衆議院議員選挙に奄美郡島区(定数1)から初出馬し、自民党の安岡興治氏と激しい選挙戦は『安徳戦争』と呼ばれ全国の注目を集めた。
徳田氏「奄美大島は世界一おかしい島、貧しい島、不幸な島だと思う。こんな奄美に誰がした?と言いたいよ」
安岡氏に2度跳ね返された後で3度目の1990年に初当選。自由連合を結成した。しかし10年以上に渡る安岡氏との両者代理戦争は激しくなり奄美全土を巻き込むこととなる。1991年伊仙町長選挙などでは暴動騒ぎも起こり当選者が1年以上も決まらないという異常事態となった。
奄美群島区が鹿児島一区と合区した1993年の衆議院選では過半数を維持出来なかった自民党が無所属で当選した徳田さんを追加公認。しかし鹿児島県医師会は激しく反発し、結局とりけしへ。
徳田氏「強く反発しているのは一部の上層部の人間。日本医師会も私が指導しないと医療界は上手く行かないのでは」
小選挙区制が導入された2003年衆議院議員鹿児島2区で4回目の当選を果たす。が、この頃から体を動かす神経が徐々に侵されていくALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病を発症。
2005年で、引退を余儀なくされる。選挙戦は後継者の次男 徳田毅氏が衆議院議員当選した。
以後東京にてALSの治療に励む。相手の言葉は理解出来るが自分では声が出せない。透明のボードに書かれた平仮名を目で追って付き添いに伝える。
徳田氏「病気をしていても気の持ち方で元気な時と同じように生きていけるし、仕事も出来るということを知ってほしい。」
2012年、故郷の徳之島に帰郷。大勢の島民が「おかえりなさい」と空港で出迎えた。島をあげての大歓迎に徳田氏の表情も笑みが見えた。
徳田氏「与論島、沖永良部島、徳之島を回ってきたが、医療の安全と安心に役立ってると実感した。(徳洲会)理事長としての生き甲斐を実感した。」
しかし、2013年に激震が走る。
東京地検特捜部は、前の年2012年の衆議院議員選挙で次男徳田毅議員の陣営に派遣されている徳洲会グループの職員に多額の現金を支払った、公職選挙法違反の買収があると見て、徳洲会本部を家宅捜索。買収資金などを用意したとして徳田虎雄さんの家族など10人を起訴、有罪判決を出す。当選した徳田毅氏は逮捕には至らなかったがこの事を受け衆議院議員を辞職した。
このような選挙違反は、徳田虎雄氏が国政進出に傾注し始めた1980年代から常態化していたとみられる。一時はグループ解体の危機に陥ったがあれから10年以上経ち、徳洲会グループ全体の医業収益は右肩上がりで増えており、経営は順調だそうである。
(『日経ヘルスケア』2023年2、3月号「創業50周年迎えた徳洲会の今」から)。
当時徳田氏は、病気を理由に不起訴処分となったが、一連の責任を果たすべく徳洲会理事長を辞任。その後は、表舞台から姿を消し闘病生活の日々を送っていた。
徳田氏の遺体は徳之島に移送され、徳田氏を偲ぶ会は2024年7月21日、故郷徳之島の福島葬祭で行われる。
参考サイト:
元衆議院議員 徳田虎雄氏が死去 「徳洲会」グループを創設
追悼・徳田虎雄氏、2005年の同氏による「手紙」など過去記事プレイバック
徳田虎雄氏の訃報受け沖永良部島に献花台「弟子たちが頑張っている」 鹿児島
徳田虎雄氏をしのぶ会 21日徳之島で開催へ
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