読売新聞グループ本社の代表取締役主筆、政界やプロスポーツ界にも影響を与えた“ナベツネ”こと渡辺恒雄氏(戸籍は渡邉)が2024年12月19日未明、都内の病院で亡くなった。98歳だった。死因は肺炎。葬儀・告別式は近親者のみで執り行う。喪主は長男睦(むつみ)さん。後日、お別れの会を開く予定。
〈早期に父と死に別れ、母子家庭で学徒動陣〉
渡辺氏は1926年(昭和元年)生まれ東京都出身。五人姉弟の三番目で長男。渡辺氏が8歳の時、銀行員の父親が亡くなる。
母親からは、偉くならなければ駄目だと常にプレッシャーをかけられていた。当時はまだ、進学校としては有名でなかった開成中学から旧制東京高等学校(現在の東京大学教育学部附属高校)、そして東京大学に進む。
本来は哲学者になることを目指していた。
途中、学徒動員で航空機工場に勤労奉仕するも、戦争反対の意志を心に根ざす。
1945年(昭和20年)その後陸軍に徴兵され、近衛師団に配属。本土決戦に向け神奈川県に配置された。回顧録によれば、陸軍二等兵としての軍隊生活で、上官から暴行を受けたそうである。
『入営してすぐ、ニーチェの言葉を葉書に書いて出そうとしたら、それを検閲した小隊長が「生意気だ」と決めつけ、古手の二等兵が革靴で渡邉の顔を殴った。革靴は毎日のように顔面に飛んできた。愚劣な戦争も陰惨な新兵いじめもすべて天皇の名において行われた。』
〜『渡邉恒雄 メディアと権力』より〜
渡辺氏の靖国参拝嫌いは学徒動員、徴兵が原因となっている。
〈東大復学後は日本共産党に入党も裏切りに会い除名〉
1945年(昭和20年)、東大に復学後、母校の東京高等学校の友人数名を誘って青年共産同盟に入り、戦犯追放運動に没頭。本共産党員となり、学内の集団を率いるリーダーだったが1947年(昭和22年)二・一ストのあとにマルクス主義に対する懐疑を抱き東大独立共産党を作ろうとして党内で対立、反党活動とみなされた。自分の味方だった1年生らから裏切られ、宮本顕治氏の前で激しく批判されて除名となった。
〈読売新聞入社後、自民党お抱え記者に〉
渡辺氏は哲学で生計を立てるのは難しいと考え哲学者の道を断念。新聞記者を志し1950年 (昭和25年)に読売新聞社に次席で入社。因みに、首席は作家の三好徹。第一志望は朝日新聞社であったが就職試験に落ちて不採用となっている。
渡辺氏の仕事ぶりが、警視庁出身の社長正力松太郎氏のお眼鏡にかない、自民党党人派の大物、大野伴睦の番記者になりそれが転機となって取材を長期に渡って担当し、以後保守政界と強い繋がりを持つようになった。
政治部長や論説委員長も務めた。
〈CIA協力者、正力松太郎の元で手足となる〉
正力氏は日米開戦時、大政翼賛会の総務だったことなどで戦後、A級戦犯容疑で巣鴨に収監された。
岸信介氏、笹川良一氏、児玉誉士夫氏、正力氏は逮捕はされたが、起訴はされておらず、東京裁判も受けていない。
正力氏はPODAMというCIAコードネームがあるという。読売新聞社を持つ正力氏はGHQと取引しCIAに協力するため、巣鴨プリズンで不起訴にされたと言われている。
そして部下である渡辺氏が、主に自民党周りの政治記者に付き、政治家と親しくなり情報を手に入れ、出世街道を登りつめることになる。
〈ついに読売新聞のトップへ〉
1991年に読売新聞社長に就任、読売新聞社が持ち株会社制に移行したことに伴い、グループ本社の社長となり、2004年からは12年余りにわたって会長の座に就任。1999年から2003年までの4年間、日本新聞協会の会長を務めた。
《歴史の1場面を作った数々のエピソード》
7年8ヶ月続いた佐藤首相が1972年6月17日辞任会見時に、新聞記者を部屋から追い出し、記者会見では冒頭、「テレビカメラはどこか、国民に直接話したい、新聞記者の諸君とは話さない、文字になると(内容が)違うから。帰ってくれ」などと発言。テレビカメラだけをおいて記者が全員退席するという前代未聞の会見となった。当時の読売新聞の写真だけが、腕を組んでしゃべらない佐藤首相の前にいる、釈然としない渡辺氏の後ろ姿までを写し込んでいる。
〈自民と公明のマリッジを背後から後押し〉
1999年9月17日。自民党総裁選挙が行われていた最中に
千代田区内の高級料亭にて、当時公明党との連立に反対する一派だった丹羽雄哉・自民党政調会長代理(当時55歳)と、公明党の坂口力・政審会長(当時65歳)。そして秋谷栄之助・創価学会会長(当時69歳)を取り持つ会合が開かれた。これをお膳立てしたのが渡辺氏だと言われている。
同年10月5日に、野党だった公明党は自民党との連立政権に参加したのである。
政界のフィクサーこと渡辺氏の存在の大きさを改めて示す逸話であった。
〈中曽根康弘氏との強力なパイプ〉
渡辺氏が最も関係を深めた権力者が元日本帝国海軍主計少佐の、中曽根康弘元総理だ。正力松太郎氏から中曽根氏との連絡役を命じられて付き合いが始まり、単なる記者と政治家の枠を超えてより一層親密になった。
出会ったのは中曽根氏がまだ30代の野党の陣笠代議士、渡辺氏は新聞社のまだ20代の政治記者の駆け出し時代。
渡辺氏は中曽根氏のことを、僕の師匠であり兄貴であり、家族である存在と語っていた。
〈中曽根康弘『死んだふり解散』バックにナベツネが〉
1986年、中曽根康弘首相は高い支持率を背景に衆参同日選挙を狙ったが、一票の格差是正が課題となり、公職選挙法改正で与野党が対立。
坂田議長の調停で合意し、5月に法案成立。その後、首相は解散を否定しながらも、6月2日の臨時国会で本会議が開けない中、議長応接室で衆議院を解散。
7月6日の衆参同日選挙で自民党は圧勝し、中曽根氏の党総裁任期が延長された。この一連の解散劇は「居眠り解散」とも呼ばれている。
これにもバックで渡辺氏が中曽根氏に強力な助言をしていたという。
〈靖国神社参拝反対派〉
渡辺氏は、内閣総理大臣の靖国神社参拝に反対している事で知られている。
「日本の首相の靖国神社参拝は、私が絶対に我慢できないことである。すべての日本人はいずれも戦犯がどのような戦争の罪を犯したのかを知るべきである」
「今後誰が首相となるかを問わず、いずれも靖国神社を参拝しないことを約束しなければならず、これは最も重要な原則である。」
「もしその他の人が首相になるなら、私もその人が靖国神社を参拝しないと約束するよう求めなければならない。さもなければ、私は発行部数1000数万部の『読売新聞』の力で、それを倒す。」
と述べ、靖国神社の代わりに『無宗教』の国立戦没者追悼施設を建設すべきと主張していた。
渡辺氏は戦争経験者であり「内務班で受けた暴力をいまでも許せない、だから首相の靖国参拝には反対だ」
と本音を語っている。
〈プロ野球・大相撲にも影響力〉
渡辺氏自身は野球とは縁遠かったが、読売新聞には読売巨人軍というプロ野球球団があり、巨人軍が弱まった1996年(平成8年)、巨人のオーナーに就任し野球にも切り込む。
また、2001年から2年間、大相撲の横綱審議委員会の委員長を務める。
〈怪我の貴乃花に対して突き放し辛辣に見守る〉
2002年7月、7場所連続で休場していた横綱・貴乃花に対し、出場勧告が決議される。右膝のケガに対して世間は同情的だったが、渡辺氏だけは「次の場所も休場するなら進退を決めるべき」と厳しい姿勢を示す。
稽古総見でも土俵に上がらなかった貴乃花に対し「失望した」と非難したが、貴乃花が8場所ぶりに出場した秋場所で12勝を挙げると、「カリスマ性が出てきた」と手のひらを返し、評価を改めた。
〈野球界の独裁者「たかが選手が」発言〉
日本のプロ野球が「球界再編」に揺れた2004年に言い放った言葉である。
親会社・近鉄グループの経営不振により深刻な財政難にあった『大阪近鉄バファローズ』と、当時の『オリックス・ブルーウェーブ』との間に生じた合併問題について、古田敦也氏を会長に据えた選手会とNPB(日本プロ野球機構)が対立。
のちに球史初のストライキにも発展した、球界の未来が案じられる騒動となった。
古田氏は「オーナーたちと話し合いたいという気持ちがある」と、各球団のオーナーとの対話を要求。この申し出に対して、 渡辺氏は
「無礼な。分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が。まあ、たかがといっても、立派な選手もいるけどね。それにオーナーと対等に話をするなんて、協約上の根拠は1つもないんだよ」
と発言したが、
しかし、「たかが、選手が」発言が切り取られ、選手を“下”に見るような発言がニュースやワイドショーで繰り返えし放送され、“球界のドン”として認知、ごちゃんねる、なんJ民によりナベツネ発言で打線を組まれるなどネットミーム化もされることになる。
〈旭日大綬章を受章〉
2008年11月、新聞業界や報道文化の発展に尽力した功績で旭日大綬章を受章した。
〈主な著書〉
「派閥」
「ホワイトハウスの内幕」
「ポピュリズム批判」
「君命も受けざる所あり」
参考サイト:さくらフィナンシャルニュースnote
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