目次
1.ノーベル経済学賞を受賞した計量経済学の巨人
ジェームズ・ジョセフ・ヘックマン教授は、2000年にノーベル経済学賞をカリフォルニア大学バークレー校名誉教授のダニエル・L・マクファーデン教授と共同受賞した、アメリカ合衆国の労働経済学者・計量経済学者であり、現代経済学を代表する人物です。
1944年4月19日にイリノイ州シカゴで生まれ、シカゴ大学のある街で育ったことも、後の学問的背景に少なからず影響を与えたといわれています。
現在は、シカゴ大学のヘンリー・シュルツ特別功労教授(Henry Schultz Distinguished Service Professor)を務め、研究・教育の両面で精力的な活動を続けています。
ヘックマンやその他の計量経済学者の研究論文・教科書には、雨宮健の理論的貢献がしばしば参照されています。
1970年代以降、ミクロデータ(個人や世帯レベルのデータ)を扱う計量経済学が飛躍的に発展しましたが、雨宮健が理論的基盤を築き、ヘックマンはそこから新たな実証的・政策的応用を開拓しました。
さくらフィナンシャルニュースnoteでは
雨宮健氏についても記事を書いているので
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マクファデン教授は離散選択モデルの開発で評価され、両者の成果はミクロ計量経済学の基盤を大きく飛躍させたと言われています。
2.ノーベル経済学賞の理由:サンプル選択バイアスの補正
ノーベル経済学賞を受賞した大きな理由として、彼が開発した「サンプル選択バイアス(sample selection bias)の補正理論」と、その理論を実証研究に適用するための「ヘックマン補正(Heckman Correction)」が挙げられます。
2-1 へックマンの選択モデル(Heckman Selection Model)
ヘックマンが世界的に高い評価を得たきっかけは、サンプル選択バイアス(sample selection bias)を補正するための理論と手法を開発したことです。
たとえば、賃金を推定する際に「働いている人だけ」を標本とした場合、そもそも「働いていない人」のデータが欠落してしまい、母集団全体の姿を正しく推定できないという問題が起こります。これが選択バイアスの典型例であり、旧来の計量分析では見過ごされがちでした。
ヘックマンは、この「選択されずに観測されないデータ」を定量的に組み込む「ヘックマン補正(Heckman Correction)」を確立しました。
これによって、労働市場の分析はもちろん、医療や教育、社会政策など幅広い実証研究の精度が飛躍的に高まりました。
「Heckman Correction」という言葉自体が、現代の応用ミクロ計量経済学を語るうえで欠かせないキーワードとなっているのは、その実用性と汎用性の高さを物語っています。
3.幼児教育・人的資本への投資研究
3-1 幼少期の教育投資がもたらす長期的効果
ヘックマンは計量経済学で革新的手法を打ち立てた一方、
幼児教育や人的資本への投資に関する研究でも顕著な業績を残しています。
特に、低所得層の子どもたちを対象に就学前教育プログラムを実施し、その効果を長期追跡調査で検証した研究は世界的に大きなインパクトを与えました。
- 幼少期の教育投資が、大人になった際の学力・就業率・所得水準・健康状態・社会的成功にまで好影響を及ぼすことを実証的に示し、教育政策や貧困対策に大きな示唆を与えています。
- 「3歳から4歳の時期に適切な教育を受けられないと、将来的に学習効果が著しく低下する」という指摘は、貧困の世代間連鎖を断ち切るうえで就学前教育がいかに重要かを再認識させるものとなりました。
3-2 根拠となった2つの社会実験
1.ペリー就学前プログラム(1960年代・米ミシガン州)
低所得層の3~4歳児に「遊びや自主性を重視した就学前教育」を一定期間行い、長期に渡って追跡調査を実施。
結果として、IQや学力、学歴、就業率などで顕著な上昇がみられただけでなく、生活保護受給率や逮捕率の低下という社会コスト削減のエビデンスも得られました。
2.アベセダリアンプロジェクト(1970年代・米ノースカロライナ州)
平均生後4.4か月の乳児から就学前まで、1日8時間、5年間にわたる濃密な教育プログラムを実施し、その後の成長・社会参加を長期追跡。IQの上昇、高校卒業率・大学進学率の向上、逮捕率の低下など、多方面でポジティブな影響が確認され、低所得家庭でも「早期介入(early intervention)」が有効であることを実証しました。
これらの実験は、「幼少期の投資は後からの補填よりも費用対効果が遥かに高い」というヘックマンの主張を強力に裏付けるもので、世界各地の教育・社会政策に大きなインパクトを与えています。
4.エビデンスに基づく政策提言と「へックマン方程式」
「ヘックマン方程式(Heckman Equation)」と呼ばれる概念では、幼児教育への投資が将来的に社会全体で大きなリターン(納税額の増加、犯罪率の低下、貧困の解消など)を生むことを定量的に示しています。
- 教育投資に費やすコストの内部収益率は、金融投資の利回り(7~10%程度)に匹敵するほど高いとされ、幼児教育は非常に有望な「社会的投資のモデルケース」とみなされています。
- 特に低所得層の子どもに対して就学前教育を充実させることは、貧困の連鎖を断ち切り、社会的格差を是正する重要な施策となりうるため、各国の政府や国際機関がこの研究を参考に政策を立案しています。
5.非認知能力(Non-cognitive skills)の重視
5-1 幼少期に差がつく「人格・態度・意欲」
ヘックマンらの後続研究で明らかになったのは、「幼児教育が長期的に影響を与える要因」は認知能力(IQや学力テスト)だけではないということです。むしろ「非認知能力(Non-cognitive Skills)」と呼ばれる、自制心・協調性・リーダーシップ・自己肯定感などの能力が大きな違いをもたらすと指摘されています。
ペリー就学前プログラムでも、小学校入学後はIQや学力テストで測れる認知能力の差が消える一方、非認知能力の差は40歳を超えてなお埋まらなかったと報告されています。こうした「人格・態度・意欲」の要素は、その後の雇用形態や収入、健康状態、さらには犯罪率にまで影響を及ぼすのです。
5-2 学歴・雇用・収入にも及ぶ非認知能力の効果
非認知能力の高さは、高学歴やホワイトカラーの人だけに必要なものではなく、あらゆる学歴・職種で重要な役割を果たします。
たとえば、日本の研究でも、中高生時代の部活動や課外活動を通じて培われる「外向性」「勤勉性」「協調性」が、将来の雇用形態や収入、昇進に影響することがわかっています。
高校を正式に卒業しないで大検(高卒認定)経由で大学に進学した学生と、通常の高校卒業から同じ大学に進んだ学生を比較した研究では、後者の方が自尊心や自制心など非認知能力において優位にあり、それが労働市場でも有利に働く可能性が示されています。
6.日本での「教育無償化」議論との関連
近年、日本では「高等教育(高校・大学)の無償化」について盛んに議論されています。少子化対策や若者の経済的負担軽減を狙ううえで、高校・大学の学費を国が負担することは一見魅力的に映ります。
しかし、ヘックマンの研究成果からは、より優先すべきは幼少期の教育への投資である、という強い示唆が得られています。
日本の公財政教育支出はGDP比3.8%(2011年)にとどまり、OECD平均5.6%を大きく下回っています。
先進国のなかでも最低水準に近いこの状態を改善するため、近年は教育無償化がしばしば取り沙汰されてきました。
しかし、財政状況が厳しい日本において、限られた資源をどの段階の教育に充てるかは重要な政策判断です。
大学や高校を一律に無償化する前に、まずは幼児期の保育制度を整備し、就学前教育の質を高めることが、社会全体の生産性向上や格差是正につながる可能性が高いと指摘されています。
ヘックマン方程式によれば、「年齢が低いほど教育投資の収益率が高い」ことがデータに基づいて示唆されています。
幼少期に形成される学習意欲や非認知能力は、その後の学習成果を左右する土台となるため、大学進学直前になってから塾や奨学金で支援するよりも、はるかに高い費用対効果を期待できるのです。
また、日本では大学の数が増えすぎてしまい、入学難易度や教育水準の低い大学が増加しているという問題も指摘されています。
もし高等教育を無償化すれば、教育効果が薄い大学にまで国費が投下されるおそれがあり、効率の面で課題が残るでしょう。
大学の量的な拡大に対応するためにも、学びの質や就職支援が十分に機能する仕組みづくりが不可欠ですが、無償化だけではこうした問題は解決しにくいのが現状です。
大学の無償化ばかりを議論するのではなく、幼児教育に重点投資する方針が、社会全体の利益にとって有望だと考えられます。
大学数が過剰で教育の質が保証されないまま無償化を実施すれば、むしろ国費が空回りし、教育効果が十分に発揮されないまま財源を浪費するリスクもあるでしょう。
子どもの学習意欲や人格形成に深く関わる幼児期こそが、教育投資の「最適タイミング」であるというヘックマンの指摘を真摯に受け止め、今後の教育政策を設計していくことが、将来的に日本社会の生産性と公正性を高める鍵となります。
7.雇用制度・職業教育への示唆
ヘックマンの「人的資本の形成」に関するアプローチは、教育政策だけでなく、雇用制度や職業教育改革の面でも大きな示唆を与えています。
日本では解雇規制や終身雇用的慣行の影響で非正規雇用が増加し、企業・労働者双方が不満を抱える構造的な問題に直面しています。
スイスなどで実施されているジョブ型教育や、専門技能を早期に習得するシステムは、ヘックマンの研究が示す「早期の人的資本形成」の考え方と親和性が高いといわれています。
8.まとめ:幼児教育が未来を拓く鍵
ジェームズ・ヘックマン教授は、計量経済学の革命的手法を築いただけでなく、幼児教育の投資効果を世界に示した先駆的研究者です。
サンプル選択バイアス補正という緻密な分析ツールと、就学前教育に関する長期追跡調査を組み合わせることで、「投資が早いほど効果が高い」というエビデンスを理論と実証の両面から示しました。
幼児期に十分な投資(質の高い保育・教育、安心できる家庭環境など)を行えば、将来の学力や職業選択、健康状態、非認知能力にわたって大きなリターンが得られるとされています。
一方で、高等教育の無償化などは一見魅力的に思われるものの、大学制度や教育内容の質的改革を同時に進めない限り、税金の無駄遣いや逆効果に陥るリスクがあるとも指摘されます。
また、雇用制度や職業教育といった社会の仕組みを総合的に見直し、「人を育てる」投資をより早期に注力することで、貧困の連鎖を断ち切り、国全体の生産性向上を目指すことも可能になります。
多くの国や地域で政策転換が起こりつつある今、ヘックマンの示す「費用対効果の高い幼児教育」への洞察はますます注目を集めており、日本でも、より豊かな社会を築くうえで幼児教育や非認知能力の向上への投資が重要であることは間違いありません。
学界と政策をつなぐ実証研究の先駆者として、ジェームズ・ヘックマン教授の功績は、今後も益々発展していくでしょう。
~ジェーム・ズへックマンの経歴~
1944年4月19日:アメリカ合衆国イリノイ州シカゴで生まれる
1965年:コロラド・カレッジを卒業(数学、B.A.)
1968年:プリンストン大学で修士号取得(経済学、M.A.)
1971年:プリンストン大学で博士号取得(経済学、Ph.D.)
1970年~1973年:コロンビア大学助教授
1973年~1977年:シカゴ大学准教授
1977年~1985年:シカゴ大学経済学教授
1985年~1995年:シカゴ大学Henry Schultz Professor
~主な業績と受賞歴~
1983年:ジョン・ベイツ・クラーク賞
2005年:労働経済学学会「生涯業績に対するジェイコブ・ミンサー賞」
2007年:アメリカ農業経済学会財団「セオドア・W・シュルツ賞」
2016年:ダン・デイヴィッド賞
2000年:ノーベル経済学賞
~代表的な著書・論文~
- Sample Selection Bias as a Specification Error (Econometrica, 1979)
ヘックマン補正を正式に定式化した論文で、サンプル選択バイアスへの対応方法を体系的に示した歴史的名著です。欠損データを含む分析に革命的な手法を提供し、以後の計量経済学や実証研究の標準手段となりました。 - Policies to Foster Human Capital (Research in Economics, 2000)幼少期を含む人的資本投資や教育政策の重要性について論じ、後の教育経済学や社会政策に大きな影響を及ぼした論文です。「早期に投資を行うほど費用対効果が高まる」という議論を展開し、政策立案に強い示唆を与えました。
- Inequality in America: What Role for Human Capital Policies? (MIT Press, 2003, 共著)人材への投資がどのように社会の格差是正につながるかを、経済学的視点で多角的に分析しています。低所得層への教育・人的資本投資を通じた不平等解消策を論じ、政策提言を行っています。
- Giving Kids a Fair Chance (MIT Press, 2013)
早期教育や幼児期の投資がいかに子どもたちの将来に影響を与えるかを、わかりやすく解説した書籍です。保護者や教育関係者に向けて、具体的な研究成果や実践を紹介し、早期介入の意義を強調しています。 - The Myth of Achievement Tests: The GED and the Role of Character in American Life (University of Chicago Press, 2014, 共著)認知能力だけでなく、いわゆる「非認知能力」(性格特性など)の重要性を扱った作品です。学力テストだけに依存した評価の問題点を指摘し、キャラクターや粘り強さといった要素が将来の成功に影響を及ぼすことを実証的に示しています。
参考サイト:
さくらフィナンシャルニュースnote
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