パラジウム触媒クロスカップリングで、分子設計の自由度を跳ね上げた
【第 1 章】序―世界が驚いた「日本人の発見」
2010 年、ノーベル化学賞。 共同受賞はリチャード・ヘック、鈴木章。授賞理由は、パラジウム触媒によるクロスカップリング反応の開発。根岸英一は、その中心に「根岸カップリング(Negishi coupling)」と呼ばれる方法を据え、有機亜鉛(Zn)化合物と有機ハロゲン化物をパラジウム触媒でつなぐ技術を磨き上げた。
1980 年代、世界は医薬・農薬・機能性材料の設計競争に突入していた。鍵は炭素–炭素結合(C–C)を、思い通りの場所で、思い通りの相手と、穏やかな条件でつくること。ひと言でいえば、根岸は「分子のパーツを、壊さず・無理なく・選択的に “はめる”」方法を社会に渡し、合成化学の設計図を書き換えた人である。
【第 2 章】原点―幼少期から形成された“探究心”
戦中・戦後の不自由な時代をくぐった世代に共通する、「ないなら工夫する」の気風を若くして身につけた。大学で化学に進み、「形(構造)が性質を決める」という当たり前の真理に魅せられる。やがて米国で研究生活を送り、ハーバート・ブラウンら世界的化学者のもとで、“反応は機構で理解し、条件で実装する”という作法を学んだ。
恩師や同僚の影響を受けつつも、根岸を根岸たらしめたのは粘り強い実験の反復と現場の観察眼だった。一見うまくいかない反応の“崩れ方”を丹念に記録し、副反応の癖から改良の糸口を見つける。のちに彼が掲げる「選択性志向合成( SOS: Selectivity-Oriented Synthesis)」は、まさにこの気質の結晶である。
【第 3 章】発想の転換―世界を変えた着想とブレイクスルー
3-1“壊さず、選んでつなぐ”という理想
従来、C–C 結合を作るには強塩基・高温・過剰金属といった“力ずく”の条件が多く、他の官能基(敏感な部位)が傷みやすかった。根岸は、パラジウムという穏やかに仕事をする金属に着目し、**反応相手(パーツ)同士の“受け渡し”**を巧みに演出する戦略をとった。
3-2 根岸カップリングのコア
根岸カップリングは、有機亜鉛試薬 R–ZnX と有機ハロゲン化物 R’–X を Pd 触媒でつなぐ方法である。中で起こることを、専門語を避けて三コマで描くと——
取り込み:パラジウムが R’–X の“結合”を一度抱え込む(壊すのではなく、抱える)。
受け渡し:そこへ R–ZnX が来て、R をパラジウムにそっと手渡す(金属同士のやり取り=トランスメタル化。
結ばせる:パラジウムは R と R’を“近くに並べ”、自然に結び直させて自分は離れる(還元的脱離)。
この手順により、狙った二点だけが静かに繋がる。温和な条件、高い化学選択性、広い適用範囲が三位一体で手に入る。
3-3 なぜ“亜鉛”なのか
亜鉛化合物は反応性が高すぎず低すぎず、パラジウムとの受け渡しがスムーズという絶妙のバランスをもつ。水や酸素に過度に弱くない実験ハンドリング性も、日々の研究と工業化を後押しした。結果、芳香族・アルケニル・アルキルといった多彩な“パーツ”が、穏やかにつながるようになった。
3-4“方法”から“言語”へ
根岸カップリングは、ヘック反応(芳香族とオレフィンの結合)や鈴木 宮浦反応(有機–ホウ素の利用)とともに、「選んで、つなぐ」ための基本文法になった。医薬・農薬・液晶・電子材料——分子設計の自由度は飛躍し、化学の R&D の思考様式自体が刷新された。
【第 4 章】栄光の瞬間―ノーベル賞受賞とその反響
2010 年の受賞発表に、世界の化学者は深くうなずいた。教科書・実験書・工場の製造プロトコルにまで染み込んだ“日常の革命”が、最高の形で認められたからだ。メディアは、高価な新薬が“何段か少ない工程で”作れる、微量の不純物も選んで避けられるといった実利に光を当てた。
根岸のスピーチは、いつも穏やかで実直だ。「選択性が化学を前に進める」—— 華麗な比喩よりも原理と作法を語り、多くの共同研究者・学生・技術スタッフの名を挙げた。祝福の輪の中心にいても、彼は研究を個人の栄光ではなく、公共の積み木として捉えていた。
【第 5 章】その後の人生―栄誉の先にある 静かな闘い
受賞後も根岸は、より難しい選択性(位置選択・立体選択)をめぐって研究・教育に力を注いだ。「副反応を敵ではなく“導き手”として観察せよ」が口癖。失敗の形から触媒・配位子の微調整点を読み取り、“条件地図”を描く指導は、門下に受け継がれた。
社会に向けては、基礎化学の持続投資を訴えた。「最短距離の近道」はしばしば遠回りになる。 原理→検証→実装の階段を、省略せずに上る文化が産業の底力を作る、と。授業・講演では、化学は人間の幸福のための学という信念を、平易な言葉で繰り返した。
【第 6 章】遺したもの―未来への継承と影響
第一に、合成の OS。 パラジウム触媒クロスカップリングは、合成計画の初手に置ける“共通語”になった。守りたい官能基を温存したまま、最後に骨格を組むという設計が常識となり、工程短縮・収率向上・廃棄物削減が同時に進む。
第二に、産業実装の強靭さ。 医薬(複雑な芳香族の連結)、農薬(選択的な置換パターン)、材料(OLED、液晶、導電性高分子)まで、製品の“鍵結合”が根岸流の文法で作られている。温和・選択的という特徴は、スケールアップと品質保証に向く。
第三に、 “選択性志向”という価値観。 ただ作れるでは不十分。どの結合を、どこで、どれだけの副反応許容で作るか——選択性を中心に据えた思考は、触媒設計・フロー合成・自動化プラットフォームへと拡張された。
第四に、人材の系譜。 研究室から育った多くの化学者が、触媒メカニズムの眼+実装の手を武器に、学界・産業界を牽引している。失敗の記述を丁寧に残すという根岸流のノート術は、再現性の文化を支えた。
【第 7 章】まとめ 一人の科学者から学ぶこと
根岸英一が教えるのは、「選択性が、世界を優しく変える」という事実だ。
問いを立てる勇気:壊さずにつなげるか? を正面から問う。
機構で考え、条件で実装:取り込み→受け渡し→結ばせる——反応の骨格を理解し、配位 子・溶媒・温度で微調整する。
失敗を資産化:副反応の癖を記録し、**“条件地図”**に落とす。偶然を再現に変える。
公共財としての化学:方法・データ・知恵を誰もが使える文法にして、社会の基盤にする。
結果として、私たちは思い描いた分子を、狙った場所で静かにつなげる術を手に入れた。
新薬の候補が速く・確かに生まれ、材料の機能が緻密に設計されるのは、“選んで、つなぐ”という発想を化学に根づかせた人たちがいたからだ。
次の世代へ。選択性を真ん中に置くこと。 機構の芯を見抜き、条件で優しく後押しするこ
と。化学は力ずくではなく、誘う技術で前に進む——根岸の仕事は、それを静かに証明している。
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