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クラリベイト引用栄誉賞(経済)シリーズ記事|オリヴァー・ハート

第 1 章 序―世界が注目する「経済学の頭脳」

オリヴァー・ハートは、不完備契約(Incomplete Contracts)の理論で、企業・政府・市場の境界線を描き直した経済学者である。現実の契約は、将来のすべての事態を書き尽くせない。だからこそ、契約に書けない部分=残余支配権( Residual Control Rights)が誰に帰属するかが、投資インセンティブ・組織の行動・社会的厚生を決定する。

グロスマン=ハート=ムーア(GHM)の一連の研究は、取引費用論を数理化し、企業統治・民営化・知的財産・破綻制度に至るまで制度設計の共通言語を与えた。2016 年、ベンクト・ホルムストロームとともにノーベル経済学賞を受賞。「書けないことが、支配と所有を決める―― ハートの洞察は、経済学の中心に“契約の限界”を据えた。

第 2 章 原点―幼少期と学問の出発点

1948 年、ロンドン生まれ。ケンブリッジ大学、ウォーリック大学、プリンストン大学を経て博士号を取得。若手期から情報の非対称性と契約に関心を寄せ、1980 年代半ばにサンフォード・グロスマン、のちにジョン・ムーアと組んで、完全契約では説明できない現実の所有権配分を数理モデルで捉え直した。のちにハーバード大学に拠点を移し、理論の厳密さと制度への眼差しを兼ね備えた研究スタイルで世代を超えて影響を与えている。

第 3 章 核心―研究の中核理論と主張
(1) 不完備契約と残余支配権

契約は不完備であり、将来起こり得るあらゆる状態を事前に規定できない。そこで重要になるのが、契約に書かれていない事柄について**最終決定権(残余支配権)**を誰が持つか、である。ハートらは、所有権=残余支配権の束と捉え、交渉が決裂したときの“外部オプション”の強さが投資インセンティブを左右すると示した。結果、資産特殊的投資をより重要に行う側に所有権を与えるのが効率的、というルールが導かれる。

(2) 企業の境界:グロスマン=ハート=ムーア(GHM)
市場取引か垂直統合か―― この古くて新しい問いに、GHM は所有権配分の最適化問題として答えた。部品メーカーと最終財メーカーが特定投資を要する状況では、どちらが資産を所有するかによって投資のインセンティブ構造が変わる。完全契約ならどちらでも同じだが、不完備契約の下では交渉力を規定する所有権が投資の強さを決め、企業境界を内生的に決定する。

(3) ガバナンスとコントロール:債務・株式・破綻
ハートは、債務契約がコントロール権の再配分装置であることを強調した。業績が悪化すると債権者にコントロールが移る設計は、経営のモラルハザードを抑制する一方、過少投資も招きうる。したがって、破綻手続(Chapter 11 型再建)や担保の扱いは、単なる法技術ではなく効率的再編を促す制度設計として理解されるべきだ、という視座を与えた。

(4) 公共サービスの提供:民営化か、官営か
ハート=シュライファー=ヴィシュニー(HSV, 1997)は、刑務所運営・清掃・インフラ保守などの公共サービスで、イノベーションの強さと品質劣化のリスクのトレードオフを分析。コスト削減が品質低下を誘発しやすい領域では官営が望ましい一方、品質劣化の外部性が小さく、革新が重要な領域では民営化が有利、といった設計原理を提示した。ここでも鍵は、契約の不完備性である。

第 4 章 挑戦―既存理論との対立と革新

ハートは、完全契約理論や取引費用経済学(TCE)を正面から継承しつつ、所有権と交渉力の明示的モデリングで前進させた。批判は二つあった。

第一に「交渉過程の単純化」 実世界の複雑な再交渉はモデルより豊かなのでは、という―点。

第二に「可観測だが契約不可能という仮定の妥当性」。ハートは、法制度・証拠能力・測定可能性を踏まえれば契約不能性は実在すると応じ、さらに多タスクやレピュテーション 、不確実性の構造変化を取り込む拡張で理論の射程を広げてきた。「完全に書けないからこそ、誰が最終決定権を持つかが決定的になる」という核心は揺らがない。

第 5 章 波及―政策・社会への影響

企業統治:支配権の割り当てを中心に考えることで、議決権設計(デュアルクラス)、買収防衛策、社外取締役の役割を“誰にコントロールを与えるか”の問題として再定式化。

M&A・垂直統合:サプライチェーンの特定投資と所有権の再配分が、生産性・革新・価格に与える影響を実証可能な仮説に落とし込んだ。

破綻制度・金融規制:担保・優先権・DIP ファイナンスなどの設計を、効率的再配分と経営者インセンティブのバランス問題として位置づけ。

PPP/民営化:契約で品質を縛れないとき、所有とインセンティブの配列で補う発想を提供。

知的財産・標準化:特許プールや標準必須特許(SEP)のガバナンスを、残余支配権の割当と交渉力の設計として理解する枠組みを供給。

第 6 章 展望―現在の研究と今後の課題

AI とデータ経済では、アルゴリズムの振る舞いや学習過程を ex ante には書き尽くせない。ゆえに、モデル更新・データアクセス・安全停止などに関する残余支配権の配分が核心となる。プラットフォーム経済では、モデレーションや API アクセス、ランキングの透明性など契約不能な領域での統治権が、競争政策の要になる。さらに、気候・インフラの
長期契約では、不確実性の構造変化(テールリスク・技術転換)に耐える再交渉ルールやオプション型条項が求められる。ハート的視点は、「書けなさ」を前提とした制度設計として、むしろ現代で存在感を増している。

第 7 章 結―「次のノーベル賞」に最も近い頭脳

オリヴァー・ハートの最大の遺産は、現実の制度は“不完備な契約”から始まると喝破したことだ。完全情報・完全契約の世界では見えなかった所有と支配の意味、民営化と官営の条件、金融契約と企業再生のメカニズムが、残余支配権の設計という一本の線で結び直された。

経済学が現実に踏み出すとき、完璧なルールではなく、再交渉と裁量を含んだ“耐える制度”が必要になる。ハートはその地図を与えた。「契約に書けないからこそ、所有が語る」―― この簡潔な真理が、企業と政府と市民のあいだで、これからも制度づくりの羅針盤であり続けるだろう。

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