【第 1 章】序―若き天才に贈られる “ノーベル賞への登竜門”
受賞年:2025 年
受賞者:ステファニー・スタンチェヴァ(Stefanie Stantcheva)
受賞時年齢:39 歳(1986 年生まれ)
クラーク・メダルは、40 歳以下のアメリカ在住の経済学者のうち、もっとも重要な業績を挙げた研究者に贈られる賞であり、多くのノーベル経済学賞受賞者を輩出してきたことから、しばしば「若き経済学者のノーベル賞への登竜門」と呼ばれる。
アメリカ経済学会は 2025 年、ハーバード大学のナサニエル・ロープス政治経済学教授であり、Social Economics Lab(ソーシャル・エコノミクス・ラボ)の創設者でもあるスタンチェヴァに、このメダルを授与した。
一言で彼女の業績をまとめるなら——
「“人々が経済政策をどう理解しているか”を、調査と理論で可視化した『頭の中の経済学』の開拓者」
ということになる。
彼女は、
最適課税理論(どのような税制が望ましいか)
税制とイノベーションの関係
大規模なオンライン調査・実験を用いた「人々の認識・信念・フェアネス感覚」の分析
を組み合わせることで、
「現実の民主主義社会で、どのような税制・再分配政策なら人々に受け入れられるのか」という、極めて実践的な問いに答えようとしている。
【第 2 章】原点―学問への情熱が芽生えた日々
ステファニー・スタンチェヴァは 1986 年、ブルガリアのクリチムで生まれ、幼少期には東ドイツやフランスで育った。
1990 年代のブルガリアは、計画経済から市場経済への移行期であり、ハイパーインフレや失業、格差拡大が進んでいた。IMF のインタビューによれば、彼女が 11 歳だった 1997 年、ブルガリアのインフレ率は年間 2000%を超え、その混乱が「経済とは何か」を考えるきっかけになったと語っている。
その後フランスに移り、パリ近郊のリセ・アンテルナショナルで学び、イギリスのケンブリッジ大学ゴンヴィル&キーズ・カレッジで経済学の学士号を取得。続いて、
エコール・ポリテクニーク
ENSAE
パリ・スクール・オブ・エコノミクス
で修士課程を修めた後、アメリカの MIT(マサチューセッツ工科大学)で経済学 PhD を取得している。
MIT 時代の指導教員は、公共経済学・マクロ経済学の第一人者であるジェームズ・ポターバとイヴァン・ヴェルニン。彼女はすでに大学院 1 年目から「最適課税」「税制と不平等」という、公共経済学のど真ん中のテーマに挑み始めたと紹介されている。
「さまざまな国をまたぎ、異なる制度や格差を“目で見てきた”ことが、税と不平等への関心につながった」
という彼女の言葉は、単なる数学好きの理論家ではなく、現実の社会問題から出発した経済学者であることを示している。
【第 3 章】主要研究―理論の革新とそのインパクト
この章では、クラーク・メダルの決め手となった主要な研究領域を、できるだけ平易に整理する。
①生涯と人材投資を見据えた「最適課税」理論
スタンチェヴァの初期の代表作の一つが、生涯を通じた教育投資と税制を同時に設計する最適課税の理論である。
直感的に言えば、問いはこうだ。
人は教育やスキルアップに投資すると、将来の所得が増える
しかし、所得税が高すぎると「がんばっても税金で取られる」と感じ、投資の意欲が落ちる
一方で、税や奨学金・教育ローンの制度が弱いと、貧しい家庭の子どもはそもそも教育投資ができない
「平等」と「効率」のバランスをどう取るか?
スタンチェヴァはここで、
能力(才能)は観察できない
教育投資は長い時間をかけて回収される
リスク(失業・病気・景気悪化)がある
といった現実の複雑さをモデルに組み込み、
「所得連動型の教育ローンを柱とする税・教育政策が、効率と公平を両立しうる」
という結論を導いた。
具体的には、
収入が低いときは返済負担を軽く
収入が高くなった人は、より多くの税・返済を通じて“プール”に貢献
こうすることで、教育へのアクセスを広くしながら、過度な格差も抑える
という設計を提案している。
②「税とイノベーション」の実証分析
クラーク賞の公式説明で特に強調されているのが、税制がイノベーションにどう影響するかを明らかにした一連の研究だ。
スタンチェヴァは、共著者とともに、
1900 年代初頭からの州ごとの法人税率・所得税率のデータ
特許データ(発明者単位で追跡)
を組み合わせ、「税率が変わったとき、その州での発明数や発明者の居住地がどう動くか」を詳細に分析した。
その結果、ざっくり言えば、
税率が上がるとイノベーションの“量”は減るが、平均的な“質”はあまり下がらない
税が高い地域から、発明者や研究活動が他地域へ移転する傾向が強い
といった、政策的に極めて重要な知見が得られた。
これは、
「イノベーションを 促したいからといって、 むやみに高所得者や企業の税を上げると“数”が減る可能性がある」
しかし「ごく一部の超エリートだけは、多少税が高くても活動を続ける」
という微妙なバランスを示しており、税制設計と研究開発政策を一体で考える必要性を浮き彫りにしている。
③「人は税制をどう理解しているのか?」を問うソーシャル・エコノミクス調査
スタンチェヴァを他の公共経済学者と決定的に分けているのが、大規模オンライン調査と実験による「人々の認識」の分析である。
彼女が中心となって立ち上げた Social Economics Lab では、アメリカや欧州など複数の国で、
何千〜何万人規模のオンライン調査
実験的に情報を与えるランダム化比較
自由回答を含むオープン・クエスチョン
を組み合わせて、人々の
税制や不平等についての「知識」
公平さや努力報酬に対する「価値観」
政策に関する「直感的なストーリー(ナラティブ)」
を測定している。
代表的な知見として、
多くの人は所得分布や税率について、かなり大きな誤解を持っている
「不平等が大きいから再分配を望む」という単純な構図ではなく、
政府への信頼
努力と結果の関係に対する信念
移民や富裕層に対するイメージ
が、再分配支持を左右している
単に「事実情報」を与えるだけでは、意見はあまり変わらないことも多い
一方で、「物語」や「具体的なケース」を示すと、態度が動く場合がある
などが明らかになっている。
これらの研究は、「人は合理的に政策を判断する」という前提がいかに強すぎるかを示し、同時に、
「それでも、人々の考え方・誤解・価値観を理解すれば、より納得感のある制度設計が可能になる」
という希望も示している。
【第 4 章】時代背景と受賞の意義
2020 年代の世界は、
世界的な格差拡大
グローバル化への反発
気候変動対策に伴う負担の配分
ポピュリズムの台頭
SNS を通じた誤情報・陰謀論の拡散
といった問題に直面している。
従来の公共経済学は、「効率性」と「公平性」のトレードオフを数式で描くことに長けていた一方で、
「人々が何を“公平”だと感じるのか」
「なぜ事実に反する信念が広がるのか」
「情報提供や説明は、どこまで態度を変えられるのか」
といった問いには、十分な答えを持っていなかった。
スタンチェヴァの仕事は、
古典的な最適課税理論をアップデートしつつ
大規模な行動・認識データを組み合わせることで
「現代の民主主義社会が本当に採用しうる税・再分配政策」を考えるための土台
をつくった点で画期的である。
クラーク・メダルの授賞理由も、
最適課税
税とイノベーション
認識と政策支持
という複数の分野での貢献を、「公共経済学の再構築」として高く評価している。
【第 5 章】世界と日本への影響
スタンチェヴァの研究は、すでに世界各国の政策議論に影響を与え始めている。
●フランス・ EU での政策提言
彼女はフランス経済分析評議会(Conseil d’Analyse Économique)のメンバーとして、気候政策や不平等是正に関するレポートを執筆し、政府への提言に関わっている。
フランスの燃料税をめぐる「黄色いベスト運動」以降、
「環境税は誰が負担するのか」という問題は各国で極めて敏感なテーマとなったが、彼女の調査は、
人々が「不公平だ」と感じるパターン
どのような説明・補償策なら受容性が高まるか
を具体的に示し、欧州の政策形成で重視されている。
●日本への含意
日本で直接スタンチェヴァの調査が行われたケースは限定的だが、彼女の枠組みは、
消費税・所得税・社会保険料の見直し
子育て支援や教育無償化
炭素税・環境税の導入
地方税制の改革
など多くの政策論に応用可能である。
とくに日本では、
「自分がどの所得階層に属しているか」を正確に知らない
世代間の負担感・不公平感
移民やグローバル化に対するイメージ
などが政策支持を左右している可能性が高く、
スタンチェヴァ流の「ソーシャル・エコノミクス的アプローチ」は、その実態を把握する強力な道具になりうる。
【第 6 章】批判と限界
もちろん、彼女のアプローチにも議論の余地はある。
調査・実験データへの依存
オンライン調査は、回答者の選抜や自己申告バイアスなどの問題を抱える
「人々が言うこと」と「実際に行動すること」が一致するとは限らない
複雑なモデルと実務のギャップ
最適課税の理論は、前提条件が多く、
現場の政策担当者にとっては「美しいが難しすぎる」部分もある
国・文化による違い
彼女の主なデータは欧米が中心であり、
アジアや途上国では、同じメカニズムが成り立つか慎重な検証が必要
“認識を変える”ことの政治的リスク
誤解や偏見を是正する試みは、「世論操作」と受け止められる危険もある
どこまでが“説明”で、どこからが“誘導”なのかという倫理的問題
とはいえ、こうした批判や限界も含めて、
「公共経済学は、人々の頭や心を無視して政策を設計できない」
という問題提起自体の重要性は揺らがない。
【第 7 章】今日的意義―次世代へのメッセージ
AI、気候危機、地政学リスク、格差拡大——
2020〜30 年代の世界は、これまで以上に複雑で不確実で、利害対立が激しい時代である。
こうした時代において、
どんな政策が“経済学的に正しいか”だけでなく、
どんな政策なら“人々が受け入れ、一緒にやっていこうと思えるか”
を理解することが、かつてないほど重要になっている。
スタンチェヴァの研究は、
「政策の成否は、人々の“頭の中”を抜きにしては語れない」
という当たり前のようでいて、経済学が長く見落としてきた点を、
理論とデータの両面から突きつけている。
若い学生・研究者に向けたメッセージとしてまとめるなら——
数式やモデルだけでなく、「現実の人間」を見よ
政策の“効率性”だけでなく、“公平感”や“尊厳”をどう扱うかを考えよ
「わからないこと」を調べる新しい方法(調査・実験・テキスト分析など)を恐れず使え
ということになるだろう。
そして何より、
「経済学は、数字だけでなく、人々の認識・希望・不安まで含めて扱うことができる学問になりつつある」
その最前線を切りひらいているのが、
クラーク・メダル受賞者ステファニー・スタンチェヴァなのである。
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