契約は「人を信じさせ、組織を動かすソフトウェア」である。ベンクト・ホルムストロムは、その“設計図”を与えた。彼の功績は、成果主義人事から公共調達、ガバナンス、スタートアップの職務設計、はては AI 時代の評価指標に至るまで、実務の隅々に浸透している。
中核はインフォマティブネス原理(informativeness principle)とマルチタスク型主従問題(Holmström–Milgrom)、キャリア関心モデル(career concerns)、チームにおけるモラルハザードである。2016 年、彼はオリヴァー・ハートとともにノーベル経済学賞を受賞し、契約理論を社会の“OS”へと押し上げた。
1. 受賞者の経歴整理(出生地・学歴・主要ポスト)
氏名:Bengt Robert Holmström(ベンクト・ロベルト・ホルムストロム)
生年:1949 年 4 月 18 日
出身:フィンランド・ヘルシンキ(スウェーデン語系住民の出身)
学歴(コア)
ヘルシンキ大学で数学・物理を履修
スタンフォード大学で修士(オペレーションズ・リサーチ, 1975)
スタンフォード大学経営大学院で Ph.D.(1978)
主要ポスト
MIT 経済学部・スローン経営大学院(Paul A. Samuelson Professor、元経済学部長)
研究関心は契約理論、企業の理論、コーポレート・ガバナンス、金融危機の流動性問題
(ティロールとの共著『Inside and Outside Liquidity』など)
受賞:2016 年ノーベル経済学賞(ハートと共同、契約理論への貢献)。受賞理由の核は、観察不可能な行動のもとで最適契約をどう設計するかという問題の体系化である。
2. 主要理論・研究内容
2.1 インフォマティブネス原理:
「報酬は“結果”ではなく、結果を最もよく説明する“情報“ ”に結びつけよ」
1 つのアウトカム(売上など)は多くの偶然要因を含む。
たとえば為替・景気・天候など、努力以外のノイズが大きいほど、出来高連動の“リスク付与”が過剰になり、優秀な人材ほど忌避する。
したがって努力と最も相関が高い情報(努力のシグナル)に報酬をリンクするのが合理的 。場合によっては“結果指標”よりも評価者の観察、同業比較、ピアレビュー、プロセス KPIの方が「情報として有益(informative)」になりうる。
実務翻訳:営業は受注額だけでなく、商談数/提案質/顧客満足などのプロセス指標を併用。研究者は論文本数だけでなく、データ公開・共同研究の貢献度などを考慮。公共部門では「コスト削減だけ」に報酬を偏らせると質の劣化を招く(後述のハートの不完全契約とも整合)。
2.2 マルチタスク主従問題(Holmström–Milgrom):
「測りやすい仕事に報酬を寄せると、測りにくい重要仕事がサボられる」
エージェント(従業員)は複数のタスクを同時にこなす。
うち測定が容易なタスク(短期売上など)に強いインセンティブを付けると、測定が困難なタスク(品質・安全・協働・育成・コンプラ)が犠牲になる。
よって”低パワーのインセンティブ(固定給や幅広い評価)”+ “職務設計の工夫”が望ましい場面が多い。例えば、学校や病院、公共サービス、研究開発など。
実務翻訳:
病院に出来高払いを強く入れ過ぎると、重症患者の回避や質の低下が起きる。
スタートアップで短期 KPI のボーナスを強めすぎると、技術負債や顧客信頼を損なう。
したがって職務再設計(Job Design)や資産所有の見直し(どの資産を誰が持つか)と報酬制度をパッケージで最適化するのが Holmström–Milgrom のメッセージ。
2.3 キャリア関心モデル(career concerns):
「明日の賃金は、今日の“能力評価”で決まる—— だから人は明日に効く行動を選ぶ」
たとえ成果連動契約がなくても、将来の昇進・市場評価(レピュテーション)が“暗黙の契約 ”形成する。
その結果、若手は見栄えの良い仕事を選びがちになり、リスク回避や情報隠し、継承不全が発生しうる。
組織は、学習と失敗の余地を制度的に作り、過度な自己宣伝へのインセンティブを薄める設計が必要。
実務翻訳:内部昇進型の組織は「中長期の能力更新」を評価に埋め込む。たとえば挑戦の記録、失敗からの学習、後輩育成を可視化し、短期の“見せる成果”偏重を矯正。
2.4 チームのモラルハザード:
「成果が合計でしか観測できないと、ただ乗り(フリーライド)が生じる」
チーム成果しか観測できない環境では、周囲の努力にただ乗りする動機が強まる。
完全な内部保険(成果の完全平等分配)は、努力のインセンティブを潰す。
解決策はピア観察・相互評価・役割分業・補完的スキルの可視化・部分的出来高などのミックス。
実務翻訳:スクラムや研究ラボで、コードレビュー・貢献ログ・著者順序の明確化は、フリーライド抑制の“契約装置”である。
3. 受賞理由と当時の経済状況(問題設定と解法)
3.1 受賞理由の骨子
観察不完全性(行動が直接見えない)のもとで最適な契約を与える枠組みを提示。
インフォマティブネス原理で「どの情報に紐づければよいか」を厳密化。
マルチタスク問題で「強すぎる成果連動が逆効果」を理論化。
キャリア関心で「契約がなくても生じる評価インセンティブ」を形式化。
これらは人事制度・コーポレートガバナンス・公共調達・規制設計に跨る“汎用理論”。
3.2 当時(1970s–2010s)の経済・制度的文脈
1970 年代以降、所有と経営の分離・大企業の複雑化、サービス産業や公共部門の肥大化で、成果計測の難しさが顕在化。
新自由主義の潮流の中で成果主義・アウトソース・民営化が進展。その光と影を、契約理論は“設計論”として捉え直した。
2010 年代は金融危機の後処理・ガバナンス強化・公共の質評価など、“質の測定”が問われるフェーズ。ホルムストロムの理論は“強い成果連動”一辺倒の副作用を可視化し、制度のチューニングに道筋を与えた。
4. 世界・日本への影響(政策・学問・日常生活)
4.1 企業・人事・評価
OKR/KPI 設計:測りやすいが本質的でない KPI 偏重を修正し、プロセス KPI やペナルティ回避の評価(不正・安全逸脱の抑制)を組み込む。
役割設計(Job Design):短期売上と長期価値創造を同じ人に背負わせすぎない、または評価を分離する。
4.2 コーポレート・ガバナンス
取締役会の報酬委員会は、ストックオプションや PSU(業績連動株)を使う際、業界調整・市場リスク調整など“情報の質”を精査する必要がある。単純な EPS 連動は景気循環や買戻しで歪む。
4.3 公共調達・民営化・教育・医療
教育:テスト点数連動は**カンニングや 教え込み“ ”**を誘発し、思考力や協働を弱めかねない。
医療:出来高払いの副作用(過剰診療や難症例回避)に配慮し、包括払い+質指標の組み合わせへ。
公共サービス:コスト削減インセンティブの付与は質低下とトレードオフ。評価不能な質要素が大きい領域では低パワーのインセンティブと厳格な監督が適切。これはハートの不完全契約理論(何を事前に書けないか)とも親和的。
4.4 金融・市場インフラ
市場のマイクロストラクチャや仲介インセンティブ設計に応用。流動性供給者の報酬・リスク分担・規制の 情報リンク が鍵。
5. 批判と限界
測定の内生性
KPI は測定されることで行動を変える。測定可能性が高いからといって本質的とは限らない。Goodhart の法則との緊張。 評価指標の定期的ローテーション/秘密指標の併用で対処。
文化・規範の軽視契約は万能ではない。信頼・ノルム・ミッションが強い組織では、低パワーインセンティブと相性が良いが、理論の外で形成される。
執行コスト・政治経済現実の組織は交渉・政治・レガシー制度で動き、理論上の最適契約に着地しづらい。
長期不確実性とオプション価値
イノベーションの世界では「測れない貢献」が価値の源泉。探索・失敗をどう契約化するかは未解決部分が大きい。
情報の質の判定問題
インフォマティブネス原理は 情報の有益性 を前提にするが、バイアス・スパム指標が混入すると逆効果。評価設計にガバナンスが不可欠。
6. 今日的意義(格差・AI・環境などの課題との接続)
6.1 格差と報酬デザイン
成果連動は不確実性を労働者へ転嫁しがちで格差拡大に寄与しうる。リスク調整と下方保護(フロア賃金・逆進的リスクの共有)が必要。
6.2 AI・アルゴリズム評価の契約理論
生成 AI 時代、 “誰の貢献か”が曖昧になる。
プロンプト設計・データ整備・検証といった見えにくいタスクが価値の源泉—— まさにマルチタスク問題。
AI 評価ダッシュボードは、質の代理指標(再現性、毒性率、バイアス、説明可能性)をインフォマティブに選ぶ必要。単純な出力数や閲覧数連動は逆効果。
6.3 ESG・サステナビリティ
環境・安全・人権は測定困難で時間遅延が大きい典型的 難評価タスク 。“ ”
したがって低パワーの報酬+強い規制・監督・開示の組み合わせが筋。スコア運用は“情報の質”(第三者監査・保証)を担保してこそ契約に乗せられる。
7. 代表的論文とキーメッセージ(一次情報で押さえる)
Moral Hazard in Teams(1982, Bell J. of Economics)
合計成果のみ観測→フリーライド→ 完全保険は努力を潰す。ピア観察・分業・部分出来高で矯正。
Multitask Principal-Agent Analyses(1991, JLEO, with Milgrom)
測定容易タスクへの高 powered インセンティブは、見えにくいタスクの萎縮を招く。低パワー+職務設計の統合が解。
Managerial Incentive Problems: A Dynamic Perspective ( 1999, Review of
Economic Studies/NBER)
キャリア関心が暗黙の契約を作る。若手の保身・見栄え優先など行動含意を示す。
受賞のプレスリリースは、インフォマティブネス原理とリスク–インセンティブの最適配分を端的に解説しており、実務家の“入口”資料として最適。
8. 図解の代替:実務テンプレ(そのまま使える評価・契約チェックリスト)
8.1 KPI/報酬設計 8 つの質問
①これは“努力”にどれだけ情報量があるか?(相関・タイムラグ)
②景気や為替など外生ショックの影響度は?(リスク負担の妥当性)
③測れない重要タスクは何か?(品質・安全・協働・育成)
④評価指標の“ゲーミング可能性” は?(Goodhart 耐性)
⑤タスク配列(Job Design)は報酬設計と整合しているか?
⑥ピア評価・360 度評価など観察情報をどう織り込むか?
⑦キャリア段階(若手/中堅/シニア)で暗黙契約が暴走していないか?
⑧監督・開示・規制など“契約外の統治装置” は十分か?
8.2 公共調達・委託契約の原則
“コスト削減のみ”連動は避ける。品質・安全・公平の評価枠を必ず併設。
評価不能な質要素が大きい領域は、低パワー+強い監督が基本線。
9. ケースで学ぶ:もし評価がこうなっていたら?
ケース A:営業組織の“ 受注額100%連動”
結果:短期値引き・不適合受注・解約率上昇。
改善:粗利/解約率/NPS/クロスセル可能性などプロセス+長期指標を併設。
ケース B:研究開発の“論文本数連動”
結果:スライス投稿・再現性低下。
改善:データ公開・再現性・共同貢献等の情報的に有益な指標を追加。
ケース C:病院の出来高払い強化
結果:軽症偏重、重症回避。
改善:重症調整、質アウトカム、包括払いのミックス。
10. 日本への示唆(人事・教育・医療・行政)
人事:年功から成果へ、の“単純スライド”は危険。プロセス評価・チーム貢献を重視した低〜中パワー設計で、測れない価値を守る。
教育:入試・校長評価を点数以外の情報で補完(調査書の定量化・PBL 成果・同僚評価)。
医療:地域包括ケアは“測定困難な総合ケア”で、インセンティブの弱さと監督の組み合わせが相性良い。
行政:民営化・指定管理者制度では質 KPI と監査を厚めに。コスト一辺倒のスキームは逆選択を招く。
11. よくある誤解への反論(FAQ)
Q1. 成果連動を弱めると、皆サボるのでは?
A. タスクが多元的なほど、低パワー+監督/規範の組み合わせが組織効率的。強すぎる出来高は見えないタスクの空洞化で長期価値を破壊する。
Q2. KPI は多ければ多いほど良い?
A. 情報の質が最重要。ノイズだらけの指標を詰め込むと、“ 誤ったインセンティブ”を埋め込む。インフォマティブな少数精鋭へ。
Q3. 天才エースなら強烈出来高で走らせるべき?
A. リスク負担の最適配分が前提。能力の高い人ほど外生ショックを嫌うので、逆効果になりうる。
12. 研究フロンティアと未解決課題
AI 時代の貢献帰属(attribution):共同生成・連鎖寄与をどう“契約化”するか。
公共の質のリアルタイム評価:センサーデータ・市民通報をインフォマティブに統合する新評価設計。
学術の再現性危機: “見栄え成果”のインセンティブから “厳密さと共有”へ。
オープンソース貢献の契約:レピュテーションと報酬のハイブリッド。
超長期投資(気候変動対応):評価指標の時間割引とガバナンスのコミットメント装置の設計。
(いずれもホルムストロムの中核命題 何を測り、どこに報酬を結び、どのタスク配列にするか——の拡張線上にある。)
13. 総括(エグゼクティブ・サマリー)
契約理論は“制度の設計学”である。
ホルムストロムは、情報とインセンティブの架橋(インフォマティブネス)、タスクの多元性(Holmström–Milgrom)、評価の暗黙契約(キャリア関心)、チームのただ乗りという現実の難題に形式的解法を与えた。
今日、AI・ESG・公共の質が問われる時代においても、その処方箋は古びない。むしろ”測りにくい価値“ の契約化こそ、これからの中核課題である。
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