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アンガス・ディートン—家計の“日々の選択”から世界の貧困まで

「GDP が伸びても、暮らしは本当に良くなっているのか?」 アンガス・ディートン——(Angus Deaton, 1945–)は、家計の消費行動というミクロの視点から、福祉測定と貧困研究の土台を築いた。需要体系(Almost Ideal Demand System, AIDS)、消費平滑化とリスク共有、価格・数量データの整合的推定、そして開発途上国の家計調査を通じ、統計のつくり方そのものを改良。マクロ指標では見えない生活の質を、価格・収入・健康の三位一体で捉える方法論を提示した。

2015 年、「消費・貧困・福祉の分析」によりノーベル経済学賞を単独受賞。

本稿は、経歴→主要理論(需要体系/価格指数/リスク共有/貧困測定/健康と幸福→受賞理由と時代背景→世界・日本への影響→批判と限界→今日的意義(格差・測定・AI・医療)まで、図解と実務チェックリストつきで解説する。

1. 受賞者の経歴整理(出生地・学歴・主要ポスト)

出生:1945 年、英国スコットランド・エディンバラ。

学歴:

ケンブリッジ大学 フィッツウィリアム・カレッジ(B.A., M.A., Ph.D. 経済学)。

主要ポスト:

ブリストル大学、プリンストン大学(Dwight D. Eisenhower Professor)。

近年はプリンストン高等研究所(IAS)や政策機関での助言にも関与。

主要著作:

Almost Ideal Demand System(Deaton & Muellbauer, 1980)

『家計調査の経済学(The Analysis of Household Surveys)』(1997)

『大脱出(The Great Escape)』(2013) 健康・富・不平等の長期史——
(ケイスとの共著)『絶望死と資本主義の未来(Deaths of Despair and the Future of Capitalism)』(2020)

小結:データの作り手であり使い手。統計と理論をつなぎ、政策へ橋渡しした。

2. 主要理論・研究内容
2-1. Almost Ideal Demand System(AIDS):実務で使える需要体系

何を解く?

所得や価格が変わったとき、各財の支出シェアがどう動くか。

エッセンス:

予算制約の下での消費最適化を柔軟に近似し、エンゲル曲線と価格弾力性を同時推定可能。

可算可能な価格指数(Stone 指数など)で現場に実装しやすい。

直観式(概念):

各財の支出シェア w_i = α_i + Σ_j γ_ij log p_j + β_i log (X/P)
(X:総支出、P:価格指数)

対称性・加法性・斉次性の制約を課し、理論整合と実務の柔軟性を両立。

使い道:税制・補助金・物価ショックが家計の負担や代替に与える影響を推計。

2-2. 消費平滑化とリスク共有:家計は雨の日にどう備えるか

完全市場なら家計は将来所得に基づいて消費を平滑化できる。しかし現実には信用制約や保険市場の欠陥で、ショックが消費に食い込む。

ディートンはパネル・擬似パネルを用い、収入ショックの分解(永続 vs 一時)と消費反応を推定。

貧困国ではリスク共有の失敗が栄養・教育に長期影響を与えることを示し、社会保護の根拠を提供。

2-3. 価格指数と福祉:インフレ測定の落とし穴

消費者物価指数(CPI)は品質変化や新製品を完全には捉えにくい。ディートンは家計査×価格データの結合で、地域・所得階層ごとの実質購買力を推定する手法を提示。

代替バイアス補正や地方物価指数の重要性を強調。

2-4. 家計調査と貧困測定:地に足のついた統計へ

途上国の家計調査(HBS/LSMS)の設計を実地で改善。回想バイアスや季節性、自給自足の評価などの測定誤差に現場で向き合った。

貧困線の設定、PPP(購買力平価)での国際比較の注意点を理論化。

2-5. 健康・寿命・幸福:『大脱出』と「絶望死」

近代 200 年の寿命延伸と所得向上を「大脱出」と呼び、知識・科学・公共衛生が貧困からの脱出を可能にしたと論じる。

一方で、米国の中年白人を中心に、薬物・アルコール・自殺による絶望死が増加。地域雇用の衰退、医療費負担、社会資本の弱体化など複合要因を指摘。

3. 受賞理由と当時の経済状況(課題と答え)

3-1. 課題(1970–2010 年代)

スタグフレーション後のミクロ基礎の再構築。

途上国の統計欠落(影の経済、農村自給)と貧困測定の難しさ。

マクロ指標では捉えにくい福祉の分配をどう測るか。

3-2. ディートンの答え

AIDS で需要推計の標準器を提供。

家計調査×価格の結合で、分配に敏感な福祉測定を実装。

リスク共有の失敗を検出し、社会保護政策の優先順位づけに貢献。

受賞の核:データと理論の往復運動で、福祉の測り方を刷新した。

4. 世界・日本への影響(政策・学問・日常)
4-1. 政策

給付金・軽減税率の効果測定に需要弾力と分配影響を導入。

途上国の統計能力強化(家計調査の設計・実施)。

4-2. 学問・実務

AIDS は多国の家計需要推定で標準化。食品・エネルギー・耐久財まで幅広く適用。

パネル化・擬似パネル技術が、長期トレンドとコホート効果の分離に貢献。

4-3. 日本の射程

食料・エネルギー高騰時の低所得層の実質負担を階層別 CPI で可視化。

孤立・健康格差への地域保健×雇用対策の統合設計。

5. 批判と限界

AIDS の近似性:高次の非線形や非ホモセティック(所得により嗜好が変わる)への対応に限界。QAIDS 等で補完。

測定誤差:家計調査の過少申告や回想バイアスが残る。スキャナーデータや電子決済との連携が必要。

原因と結果の識別:幸福・健康と所得の双方向性。自然実験や計量的工夫が不可欠。

文化差:幸福や主観厚生の国際比較は、文化的応答スタイルの差に敏感。

6. 今日的意義(格差・AI・医療・気候)
6-1. インフレと生活防衛

階層別 CPI・地域別物価で実質所得を細かく測り、ターゲティング精度を上げる。

6-2. AI と消費データ

POS/電子決済・スマホ領収書の大規模データで、AIDS/QAIDS を高頻度に更新。

推薦アルゴリズムの消費偏位(フィルターバブル的代替)も評価対象に。

6-3. 医療・絶望死への対策

地域雇用・医療アクセス・鎮痛薬規制の統合政策。集落単位の指標設計がカギ。

6-4. 気候と福祉

炭素価格・エネルギー転換が家計に与える負担を需要体系で評価し、戻し税や移動支援で補う。

7. 図解でつかむコア(概念)

画像


8. ケーススタディ(応用)
8-1. 軽減税率と給付金の設計

AIDS 推定で恩恵の帰着(消費者 vs 企業)を評価。低所得層ターゲティングの設計へ。

8-2. 地域物価の公開ダッシュボード

自治体が地域 CPI・購買力指数・食料・エネ負担率を公開し、給付の自動トリガーを設計。

8-3. 医療・依存症対策の統合 KPI

救急搬送・自殺率・オピオイド関連の地理統計を、雇用指標と統合してモニタリング。

9. 研究の広がりと後継

QAIDS(Quadratic AIDS)や多石油・多地域モデルなどの拡張。

購買データ×家計調査の結合、機械学習で異質性を可視化。

幸福・主観福祉と健康・医療の統合研究が加速。

10. FAQ(誤解の整理)
「AIDS=疾病?」 需要体系の頭字語。医療の→ AIDS とは無関係。

「消費データだけで福祉は測れる?」→ 価格・数量・健康を結合してこそ全体像に近づく

「PPP 比較は万能?」→ バスケットの違い・品質差を踏まえ慎重な利用が必要。

11. 実務者チェックリスト(政府・自治体・企業・研究者)

データ設計:家計調査の標準化・季節性補正・匿名化・連結。

需要推定:AIDS/QAIDS で価格・所得弾力性を毎年更新。

分配評価:階層別 CPI・地域価格で再分配政策を評価。

健康連結:医療・公衆衛生データと地理で結合し絶望死のホットスポットを把握。
公開と説明:わかりやすいダッシュボードと住民説明で政策合意。

12. まとめ —「測る」ことが政治を動かす

ディートンは、消費と価格という日常の記録から、福祉と公正を測る道具を作った。インフレ、格差、健康危機の時代に、誰がどれだけ困っているかを正確に測ることは、あらゆる政策の起点である。データの作り方→ 推定→ 政策の三位一体を現場に根づかせること—それがディートン経済学の核心だ。

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