【第 1 章】序― 若き天才に贈られる“ノーベル賞への登竜門”
受賞年:1987 年/受賞者:サンフォード・J・グロスマン(当時 34 歳)。
クラーク・メダルは、 40 歳以下のアメリカの経済学者に対して、アメリカ経済学会(AEA)が「最も顕著な貢献をした若手研究者」に贈る栄誉です。
グロスマンは、情報の非対称性、取引市場、所有権、企業統治、リスク管理といった領域で理論と実証を結びつけ、金融とコーポレート経済学を根底から再構築した人物です。
1970〜80 年代、経済学界は「市場はすべての情報を価格に反映する」という効率的市場仮説(EMH)が主流でした。そこにグロスマンは、「もし市場が完全に効率的なら、情報を集めるインセンティブが消える」という逆説を突きつけます。
キャッチコピー:
「“見えない情報格差”が市場を動かす―その構造を理論で描いた革新者」
【第 2 章】原点―学問への情熱が芽生えた日々
サンフォード・J・グロスマンは 1953 年、アメリカ・ニューヨーク市に生まれました。
シカゴ大学で学士・修士・博士号をわずか 3 年間で取得し、若くして経済学の核心に挑みます。博士課程では、合理的期待理論をベースにしつつも、「現実の市場には観察されない情報格差がある」という直観を掘り下げていきました。
学生時代からのテーマは明確でした。
なぜ同じ市場に参加しても、人によって得られる情報量が異なるのか。
情報の差は、どのように価格や取引行動に反映されるのか。
契約や所有権の設計は、こうした情報格差にどう対処できるのか。
この探究心が、後の「情報理論」「所有権理論」「企業統治論」へと結実します。若き日のグロスマンは、既存理論を“現実の不完全な制度世界”に引き戻すことを目指していました。
【第 3 章】主要研究―理論の革新とそのインパクト
(1) 情報の非対称と市場の効率性
1976 年の研究で、グロスマンは「異なる情報を持つ投資家が取引する市場」では、価格がすべての情報を反映するとは限らないことを示しました。
市場には「情報を集めるコスト」が存在するため、全員が完全に情報を共有する均衡は崩壊する――これが彼の主張でした。
さらに 1980 年、ジョセフ・E・スティグリッツとの共著で「情報的に完全効率な市場は存在し得ない」という定理を提示。
「もし市場がすべての情報を反映していたら、誰も情報収集にコストを払わなくなる。すると市場は再び非効率になる」という自己矛盾を突いたこの結果は、効率市場仮説への決定的な反証として知られています。
この理論は、今日の行動経済学や金融市場設計にも続く「部分的効率性」「情報の断片化」という考え方の出発点となりました。
(2) 所有権と企業の統合理論 ―「グロスマン=ハート・モデル」
1986 年、オリヴァー・ハートとの共著「The Costs and Benefits of Ownership」で、企業の垂直統合と所有権配分をめぐる理論を発表。
契約がすべてを網羅できない「不完備契約」の世界では、誰が資産を所有するかが取引の効率を左右すると説きました。
簡単にいえば、将来の不確実性や交渉コストが大きい場合には、資産を内部化して所有したほうが合理的。これにより「企業とは何か」「どこまで統合すべきか」という古典的な問いに、明確な数理的回答を与えました。
この理論は、のちに「グロスマン=ハート=ムーア理論」として発展し、ノーベル経済学賞(2016 年)の礎となりました。
(3) 金融市場の構造と情報の役割
グロスマンは金融市場のミクロ構造にも深く踏み込みました。
先物・オプション市場、プログラム取引、流動性、価格変動性の研究を通じ、取引量やボラティリティが「情報の流れ」をどのように反映するかを明らかにしました。
また、「The Informational Role of Prices(1989)」では、価格が単なる結果ではなく、情報を伝えるメカニズムであることを理論化。
市場は「参加者の知識を集約する装置」であり、完全でも無秩序でもない――この視点は 、今日のマーケット・マイクロストラクチャー研究の基礎を成しています。
【第 4 章】時代背景と受賞の意義
1980 年代初頭、アメリカでは金融自由化・M&A ブーム・先物取引の拡大など、市場制度が急激に変化していました。
古典的な「完全情報」「完備契約」「均衡価格」のモデルでは説明できない現象が次々に現れ、経済学は“制度の現実性”を求められる時代に入っていました。
グロスマンはこの流れの中心に立ち、「情報と所有権」を鍵に、経済制度のあり方を数理的に描き直しました。
クラーク賞受賞は、彼の理論が単なる抽象モデルではなく、現実の市場と企業行動を説明する力を持っていたことの証でもあります。
【第 5 章】世界と日本への影響
グロスマンの理論は、世界の経済政策・企業経営・金融制度に深く浸透しました。
金融市場の設計
情報格差・取引コスト・市場流動性を考慮した市場制度設計(清算機関・取引所改革など)は、彼の理論を基礎に置いています。
企業統治と所有構造
日本でも 90 年代以降、M&A・ホールディングス化・社外取締役制度が議論される際、「所有権とインセンティブの最適配分」という視点が導入されました。
金融リスクと政策評価
中央銀行や規制当局における「情報の非対称性」「予想形成」「市場安定化メカニズム」の研究は、グロスマンの理論的系譜にあります。
【第 6 章】批判と限界
グロスマンの理論は広範に影響を与えましたが、いくつかの限界も指摘されています。
抽象度が高く、実証が難しい:
情報の非対称性や所有権の効果を定量的に測定することは依然として難題です。
行動要因の排除:
人間の非合理性や行動バイアスを考慮しない点で、行動経済学の観点から補完が必要とされています。
デジタル経済への適用課題:
現代のプラットフォーム企業や AI 経済では、情報が瞬時に共有・取引される。従来の「情報のコスト」概念を再定義する必要があります。
それでも、彼の理論枠組みは依然として制度設計・政策評価の基本構造を支えています。
【第 7 章】今日的意義―次世代へのメッセージ
21 世紀の経済は、「データ」「AI」「知識」「アルゴリズム」といった“新しい情報財”に支配されています。
グロスマンの問い ――「情報を誰が持ち、どう所有し、どのように市場に反映させるのか」―― は、かつてなく重要になっています。
もし彼が現代に研究を続けていたなら、
プラットフォーム支配の経済構造
データの所有権と利用権の分配
AI による情報収集コストのゼロ化と市場の再編
サステナビリティ投資における情報非対称の課題
これらを、彼独自の“制度設計としての経済学”で分析したことでしょう。
若い研究者へのメッセージは明快です。
「市場を信じるな。情報と契約を見よ。」
市場は常に不完全であり、情報と所有の設計によって初めて秩序が生まれる ――。
グロスマンは、経済学を「制度の科学」へと引き上げた人物でした。
さくらフィナンシャルニュース
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