【雨宮健氏の功績】
2000年秋、日本中が白川秀樹筑波大学教授のノーベル化学賞受賞で盛り上がる一方、ノーベル経済学賞に最も近づいた日本人が惜しくも受賞を逃していたことは、あまり知られていません。
その人物は、計量経済学の分野で長年活躍していた雨宮健氏です。
雨宮健氏は、1964年にサンフランシスコのスタンフォード大学に赴任して以来、30年以上にわたり研究を続け、経済学界の重鎮として知られていました。
雨宮健教授
【ミクロ計量経済学の進化】
2000年のノーベル経済学賞受賞者は、カリフォルニア大学バークレー校のダニエル・マクファデン教授とシカゴ大学のジェームズ・ヘックマン教授の2人です。
受賞理由は 「ミクロ計量経済学の分野で、個人や家計の動きを計量分析する理論と手法を開発、発展させた」とされています。
計量経済学は統計学、経済理論、数学の三つを統合したもので、経済現象を定量的に分析することを目的としています。主な経済量の相互の関係を計測し、経済現象の仕組みを数量によって明らかにしながら、経済の現状分析だけでなく、将来予測にも役立てようとするものです。
計量経済学は、大きくマクロとミクロの二つの分析手法に分けられます。
マクロ計量経済学は、経済予測やマクロ経済全般を対象とし、1980年にローレンス・クライン氏がノーベル経済学賞を受賞するなど、多くの研究者が注目されてきました。
一方、ミクロ計量経済学は統計調査や社会調査の結果など、細かなデータを基に分析する手法です。
1970年代以降、個人や家計、企業の行動が多様化する中、GDP統計などのデータに基づく従来のマクロ的手法では経済の実体を正確に把握するのが難しくなりました。
そうした状況を背景に、マクファデン、ヘックマン両教授が開発したのは、家計簿や消費統計などの細かいデータを数学的に分析し、経済全体の動きをとらえる実証的手法です。
ミクロデータの分析手法の進展により、これまで困難とされていた消費者行動や労働市場などの細かなデータの活用が可能になりました。
両教授が開発した質的変量分析は、マーケティング分野で消費者のブランド選択を評価する標準的な手法として定着しています。また、パソコンやソフトの発展と相まって、社会学、政治学、教育、犯罪心理学といった幅広い分野においても、実証分析の一手法として活用されるようになりました。
これらの実証研究の理論的基盤を支えたのが、雨宮健氏の業績なのです。
【雨宮理論の貢献】
では、受賞者2人の業績と比較する為にも、「雨宮理論」を見てみましょう。
雨宮氏は、こうしたミクロ計量経済学の理論基盤をさらに発展させました。
通勤手段(車、電車、バス)の選択のような離散的選択の分析において、所得、職業、通勤距離などの社会的・経済的要因を組み込むことで、質的データを経済的満足度(効用)として分析する手法を確立しました。
さらに、車通勤の快適さや通勤手当の有無といった直接観測できない要因を補完する確率論的な推定方法を導入し、欠落データを補完する精度の高い分析を可能にしました。
雨宮氏の業績は、不完全なミクロデータを活用して実態をより正確に捉える方法論を確立し、数理解析を用いてその精度を理論的に証明した点にあります。
この革新的なアプローチは、公共政策の計量評価やマーケティング分析をはじめ、社会学、政治学、教育、犯罪心理学など幅広い分野で応用され、計量経済学の発展に多大な貢献を果たしました。
2000年のノーベル経済学賞は「理論より実証」を鮮明にした形で、結果的に雨宮氏は選から漏れましたが、周辺にはいまだに惜しむ声が渦巻いています。
【日本人がノーベル経済学賞を逃し続ける理由】
雨宮氏と親交の深い、帝塚山大学大学院経済学研究科長であった森口親司氏は、「ノーベル経済学賞は、純粋な業績のみでは決まらない」と言います。
ノーベル経済学賞受賞者の大半はアメリカを中心とした経済学会の重鎮であり、ある種のインナーサークルでたらい回しにされている印象があるのも事実です。
ノーベル賞を受賞するには良い仕事 (一流の論文)のみではダメで、論文の引用数も重要なのです。
加えて森口氏は「日本の研究者には、いい研究をすれば給料が上がるシステムもないから、頑張れば頑張るほど損をする。逆に何もしなくてもポジションは安定しているので、食うに困ることがない。結局そういうシステムが個人の独創性を根本からつぶしている」と言います。
ノーベル経済学賞受賞については、政治性など不透明な要素や、選考基準が明確でない部分など経済学者としての指標になる訳ではありません。
しかし、ノーベル経済学賞に近づいたのが雨宮氏というのは寂しく感じます。
バブル崩壊後景気低迷が続いているといっても、日本はGDP世界第4位(2024年現在)の世界有数の経済大国であることに変わりはありません。
経済のファンタメンタルズでは、先進諸国と比べて遜色ない日本はなぜノーベル経済学賞受賞者を輩出できないのでしょうか?
アカデミズムにも、官僚制度にもそれぞれネックがあることは確かですが、そうしたシステム論を超えて、日本人の生き方そのものに原因があるとする見方も根強く存在します。
ミネソタ大学、シカゴ大学など在米経験の長い、京都大学経済研究所教授の刈谷武昭教授はこう述べています。
「日本社会は 『モグラ叩き』的な性質が強く、他者を前向きに評価せず、分野内での競争や協力が乏しい。この結果、独創性や多様性が制限される。一方、アメリカでは優れた人材を認めて積極的に共同研究を行い、多様性を活かした成果を生み出す文化がある。この違いが、学術分野での成果の差に繋がっている可能性がある」
日本の経済学者の口から出る不平不満には、枚挙のいとまがありません。
日本が学術界でさらなる飛躍を遂げるには、閉鎖的な構造や独自の文化を乗り越え、独創性と協力を重視する社会を築く必要があるでしょう。
~雨宮健氏の経歴~
1935年3月29日東京生まれ
1959年国際基督教大学(ICU)社会学科卒業
1964年ジョンズ・ホプキンス大学経済学博士号取得、スタンフォード大学経済科学部助教授に就任
1966年一橋大学経済研究所専任講師就任
1968年スタンフォード大学経済学部准教就任
1974年同学部教授就任
2024年現在引き続き研究を行っている
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