
2006年5月1日、日本の会社法制は大きく変わった。従来、商法、有限会社法、商法特例法などに分散していた会社に関するルールが、一本の「会社法」として再編されたのである。会社法は平成17年法律第86号として制定され、平成18年5月1日に施行された。経済産業省も当時、「会社法」が平成17年7月26日に公布され、平成18年5月1日に施行されたと整理している。
この大改正を受けて、法律専門誌『ジュリスト』2006年7月1日号、通巻1315号は「会社法規則の制定」を特集した。その冒頭に掲載されたのが、上村達男氏の「新会社法の性格と法務省令」である。なお、ご指定の「ジユリストー315号」は、内容から見て『ジュリスト』1315号を指すものと思われる。有斐閣の掲載情報でも、同号の特集1「会社法規則の制定」に、上村達男「新会社法の性格と法務省令」が収録されていることが確認できる。
本稿で上村氏が問題にしたのは、単なる条文解説ではない。むしろ核心は、新会社法とはどのような思想を持った法律なのか、そして法務省令がその性格をどのように補完し、あるいは変質させているのかという点にある。
1 新会社法は「現代化」か、「規制緩和」か
新会社法は、しばしば「会社法制の現代化」と説明される。
たしかに、形式的にはその通りである。商法の会社編、有限会社法、商法特例法など、複雑に分かれていた会社法制を一つの法律にまとめた。株式会社、持分会社、組織再編、会計、機関設計などを体系的に整理した点では、法制度としての見通しは改善された。
しかし、上村氏の問題意識は、そこにとどまらない。
問題は、現代化という名の下で、会社法が誰のための法律になったのか、という点である。
新会社法では、最低資本金制度が廃止され、資本金1円でも株式会社を設立できるようになった。有限会社制度は廃止され、新たな有限会社の設立はできなくなった。既存の有限会社は特例有限会社として存続するが、制度としては株式会社中心の会社法体系へと再編された。こうした変更は、起業の容易化、企業活動の自由化、制度選択の柔軟化として評価された。
だが、上村氏は、こうした方向性に対して強い警戒感を示したと考えられる。公開されている関連論評でも、上村氏は最低資本金制度の廃止について、会社制度に関わる者の要望を優先する形で行われたことを批判していたと紹介されている。
ここに、同論考の大きな問題提起がある。
会社法は、企業活動を便利にするためだけの法律なのか。
それとも、株主、債権者、従業員、取引先、消費者、市場全体を守るための公共的インフラなのか。
この問いこそ、上村氏の会社法論の出発点である。
2 法務省令に委ねられた巨大な領域
新会社法のもう一つの大きな特徴は、法律本文だけでは完結せず、多くの事項が法務省令に委ねられたことである。
会社法施行規則は、「会社法の委任に基づく事項その他法の施行に必要な事項」を定めるものとされている。会社計算規則も、会社法の規定により委任された会社の計算に関する事項を定める省令である。
つまり、会社法の実務運用は、法律の条文だけを読んでも十分には理解できない。
会社法施行規則、会社計算規則、電子公告規則などの法務省令を読んで、初めて全体像が見える構造になっている。
これは、実務家にとっては便利な面もある。細かな技術的事項を法律本文ではなく省令に委ねれば、制度変更に柔軟に対応できる。企業会計、開示、組織再編、株主総会書類、内部統制など、変化の激しい分野では、法律よりも省令の方が機動的に対応しやすい。
しかし、ここに重大な問題がある。
法律で本来決めるべき基本事項が、省令に過度に委ねられていないか。
国会審議を経る法律ではなく、行政機関が定める省令によって、会社法の実質的なルールが形成されていないか。
上村氏の「新会社法の性格と法務省令」は、まさにこの点を問題にした論考だといえる。
3 会社法の「私法化」と公共性の後退
新会社法は、契約自由、定款自治、機関設計の柔軟化を大きく進めた。
たとえば、会社の機関設計については、従来よりも多様な選択肢が認められるようになった。取締役会を置く会社、置かない会社、監査役を置く会社、会計参与を置く会社、委員会設置会社など、会社の規模や実態に応じて制度を選べるようになった。
一見すると、これは合理的である。
中小企業と上場大企業に同じルールを強制する必要はない。小規模な同族会社には簡素な制度を認め、大規模な公開会社には高度なガバナンスを求める。この発想自体は間違っていない。
しかし、問題は、柔軟化が行き過ぎると、会社法の公共性が弱まることである。
会社は私人の契約によって作られる存在である一方、社会的影響力を持つ制度でもある。会社は労働者を雇い、取引先と契約し、消費者に商品やサービスを提供し、金融市場から資金を調達する。上場会社であれば、一般投資家の資産形成にも関わる。
したがって、会社法は単なる当事者間のルールではない。
社会全体の信用秩序を支える制度である。
上村氏の問題意識は、ここにある。
会社法を「企業が自由に使える便利な制度」としてだけ見ると、債権者保護、少数株主保護、市場の公正、会社財産の維持といった観点が後景に退く。会社法があまりにも企業側、経営側、制度利用者側の便宜に傾くと、会社制度そのものへの信頼が損なわれる。
4 最低資本金制度廃止の意味
新会社法を象徴する改正の一つが、最低資本金制度の廃止である。
従来、株式会社を設立するには原則として1,000万円、有限会社には300万円の最低資本金が必要だった。新会社法により、この制度は廃止され、資本金1円でも株式会社を設立できるようになった。
これは起業促進策としては分かりやすい。
資本金のハードルが下がれば、若者、個人事業主、ベンチャー起業家が会社を作りやすくなる。経済の活性化にもつながる。
しかし、上村氏が警戒したのは、会社制度の信用が軽く扱われることである。
株式会社は、出資者が有限責任を享受する制度である。つまり、株主は原則として出資額以上の責任を負わない。これは、事業へのリスクマネー供給を促すための重要な仕組みである。
だが、有限責任を認める以上、債権者や取引先をどのように保護するのかという問題が必ず発生する。
最低資本金制度は万能ではなかった。資本金が1,000万円あっても、すぐに使い切れば債権者保護にはならない。形式的な規制にすぎないという批判もあった。
しかし、だからといって、資本金規制を撤廃すれば問題が解決するわけでもない。
重要なのは、最低資本金制度を廃止するなら、それに代わる信用維持の仕組みをどう設計するかである。開示、会計、取締役の責任、詐害的会社設立への対応、債権者保護、登記情報の信頼性などが整っていなければ、会社制度は単なる「責任回避の箱」になりかねない。
ここに、上村氏の批判の鋭さがある。
5 法務省令が会社法の実質を決める危うさ
会社法施行規則や会社計算規則は、実務上きわめて重要である。
会社計算規則は、会計帳簿、資産・負債の評価、計算書類、連結計算書類、剰余金の分配など、会社財産と株主・債権者の利害に直結する事項を定めている。e-Gov上でも、会社計算規則は会社法の委任に基づき、会社の計算に関する事項を定める省令として位置づけられている。
会社法施行規則も、株主総会参考書類、事業報告、取締役・監査役・会計監査人に関する事項など、会社実務の中核を担う。
このこと自体は避けられない。会社法の技術的事項をすべて法律本文に書き込むことは難しい。
だが、問題は程度である。
法務省令に委ねられる範囲が広すぎると、会社法の重要部分が、国会の民主的コントロールから遠ざかる。法律では抽象的な原則だけを定め、実質的なルールは省令で決まる。そうなれば、企業法制の骨格が行政実務によって形成されることになる。
これは、会社法の正統性に関わる問題である。
会社法は、単なる行政手続法ではない。民間経済の基本秩序を定める法律である。
その核心部分が省令に委ねられすぎれば、法の支配、立法府の役割、透明性、予測可能性が損なわれる。
上村氏の論考は、この「省令委任型会社法」の危険性を早い段階で指摘したものとして読むべきである。
6 公開会社と閉鎖会社を同じ会社法で扱う難しさ
新会社法は、株式会社制度を一本化した。
しかし、同じ株式会社といっても、実態はまったく異なる。
一方には、上場会社、公開会社、大規模会社がある。
他方には、家族経営の中小企業、同族会社、一人会社がある。
両者を同じ「株式会社」として扱うことには、制度上の難しさがある。
小規模会社に過度な規制を課せば、企業活動を阻害する。
一方で、上場会社に過度な自由を認めれば、少数株主や市場が犠牲になる。
したがって、本来必要なのは、会社の実態に応じた規律の差異である。
上村氏は、以前から公開会社法制の重要性を論じてきた会社法学者である。有斐閣の著者情報でも、上村氏には「公開会社と閉鎖会社」に関する研究業績が確認できる。
この観点から見ると、新会社法は、閉鎖会社に対する柔軟化を重視するあまり、公開会社に求められる厳格な規律を十分に独立させきれなかった、という批判が成り立つ。
上場会社は、単なる私人の会社ではない。
資本市場を通じて不特定多数の投資家から資金を集める存在である。
であれば、公開会社には、より高度な開示、取締役の責任、少数株主保護、利益相反取引規制、組織再編時の公正性確保が必要である。
新会社法が「一つの会社法」として整理されたことは便利だが、その便利さの裏側で、公開会社法制の独自性が薄まっていないか。
これもまた、上村氏の問題意識と重なる重要論点である。
7 企業実務優先の会社法でよいのか
新会社法は、経済界、実務界からは概ね歓迎された。
起業しやすくなった。
機関設計が柔軟になった。
組織再編がしやすくなった。
定款自治が拡大した。
企業活動の自由度が高まった。
これらは、企業側から見れば明らかなメリットである。
しかし、さくらフィナンシャルとして注目すべきは、その裏側である。
会社法が企業にとって便利になることと、社会にとって望ましい会社法になることは、必ずしも一致しない。
たとえば、組織再編が容易になれば、M&Aや企業再編は進みやすくなる。
しかし、少数株主に不利な価格でスクイーズアウトが行われるリスクも高まる。
資本金規制が緩和されれば、起業は増える。
しかし、実体の薄い会社、信用力のない会社、詐欺的会社も作りやすくなる。
機関設計が柔軟になれば、中小企業には使いやすい。
しかし、ガバナンスを弱める口実にもなりうる。
つまり、規制緩和には必ず副作用がある。
上村氏の議論は、この副作用に目を向けるものである。
会社法は、企業のためだけの法律ではない。
株主、債権者、従業員、取引先、消費者、投資家、市場全体のための法律である。
8 サクラフィナンシャルの視点――会社法は「資本の暴走」を止められるか
現代の日本市場を見ると、上村氏の問題提起はますます重要になっている。
MBO、TOB、スクイーズアウト、第三者割当、親子上場、少数株主の締め出し、非上場株式の売却困難、同族会社内の支配権濫用。
こうした問題の多くは、会社法の制度設計と深く関係している。
形式的には合法であっても、実質的には少数株主に不公正な取引が行われることがある。
形式的には株主総会決議を経ていても、情報格差や支配株主の影響力によって、公正な意思決定とは言い難い場合もある。
会社法が「使いやすい法律」になることは重要である。
しかし、それ以上に重要なのは、会社法が「濫用されにくい法律」であることだ。
とりわけ資本市場においては、制度を知り尽くした者が、制度を知らない少数株主や一般投資家を圧倒する構図が生まれやすい。
だからこそ、会社法には、単なる自由化ではなく、公正性の確保が求められる。
上村氏が新会社法と法務省令をめぐって投げかけた問いは、現在の企業統治改革、東証改革、PBR改革、アクティビスト対応、少数株主保護にも直結している。
9 結論 上村達男論文の核心
上村達男「新会社法の性格と法務省令」は、単なる施行規則の解説ではない。
それは、新会社法の根本的性格を問う論考である。
新会社法は、会社制度を使いやすくした。
しかし、それは同時に、会社制度の公共性を弱める危険も伴っていた。
法務省令は、会社法実務を支える不可欠なルールである。
しかし、それが広範囲に及びすぎれば、法律の重要部分が行政立法に委ねられることになる。
最低資本金制度の廃止は、起業を促進した。
しかし、有限責任制度の濫用を防ぐ仕組みが不十分であれば、会社制度の信用は傷つく。
機関設計の自由化は、中小企業には便利である。
しかし、公開会社や上場会社については、より厳格なガバナンスと少数株主保護が必要である。
この論考が現在も重要なのは、会社法を単なる「企業活動の道具」としてではなく、社会的な信用秩序を支える公共インフラとして見ているからである。
会社法は誰のためにあるのか。
経営者のためか。
大株主のためか。
企業実務家のためか。
それとも、株主、債権者、従業員、取引先、消費者、投資家を含む社会全体のためか。
上村氏の問題提起は、2006年当時の新会社法批判にとどまらない。
それは、現在の日本企業社会に対する根本的な問いでもある。
さくらフィナンシャルは、ここに注目する。
会社法は、資本の自由を保障するだけでは足りない。
資本の濫用を抑え、市場の公正を守り、少数者の権利を守るものでなければならない。
新会社法から20年近くが経過した今、私たちは改めて問う必要がある。
会社法は、本当に公正な市場を支えているのか。
それとも、制度を使いこなす者にだけ有利な法律になっていないか。
上村達男氏の「新会社法の性格と法務省令」は、その問いを今なお鋭く突きつけている。
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