自動車、スマートフォン、企業合併、環境政策まで
実証産業組織論を変えた1995年の革命
市場には、同じ商品は一つとして存在しない。
自動車であれば、価格、燃費、馬力、車体の大きさ、デザイン、ブランド、乗り心地が異なる。スマートフォンであれば、画面サイズ、カメラ性能、基本ソフト、処理速度、ブランドへの信頼、周辺サービスが違う。
企業は、完全に同じ商品を同じ価格で販売しているわけではない。それぞれ少しずつ特徴の異なる商品を投入し、消費者を奪い合っている。
では、ある車種の価格が上がったとき、消費者はどの商品へ移るのか。
トヨタのコンパクトカーから、日産やホンダのコンパクトカーへ移るのか。それとも、
高級スポーツカーや大型ミニバンへ移るのか。
この一見単純な問いを、現実の市場データから正確に解くことは、長い間、経済学にとって極めて難しい課題だった。
その難問に大きな突破口を開いたのが、スティーブン・ベリー、ジェームズ・レヴィンソン、アリエル・ペイケスの3人である。
3人が1995年に発表した論文「Automobile Prices in Market Equilibrium」は、現在「BLPモデル」と呼ばれる分析手法を確立した。
BLPとは、Berry、Levinsohn、Pakesの頭文字である。
発表から30年以上を経ても、このモデルは産業組織論、競争政策、企業結合審査、新商品分析、環境政策評価などの重要な基盤であり続けている。
経済理論を現実の市場へ接続した功績を考えれば、この3人をノーベル経済学賞に値する研究者として挙げてもよいのではないだろうか。
単純なロジットモデルが抱えていた限界
BLPモデル以前にも、消費者が複数の商品から一つを選ぶ行動を分析する方法は存在した。
代表的なのが、ダニエル・マクファデンらが発展させた離散選択モデルである。マクファデンは、人々が自動車、交通手段、住宅などの選択肢から何を選ぶかを統計的に分析する方法を確立し、2000年にノーベル経済学賞を受賞している。
その代表的な形式である多項ロジットモデルには、計算しやすいという大きな利点があった。
しかし、同時にIIA、すなわち「無関係な選択肢からの独立性」と呼ばれる強い制約を抱えていた。
有名なのが「赤いバスと青いバス」の例である。
自動車と赤いバスの利用者が、それぞれ半分ずつ存在しているとする。そこへ、性能が赤いバスとほとんど同じ青いバスが登場した場合、常識的には、青いバスは主に赤いバスの利用者を奪うはずである。
ところが、単純なロジットモデルでは、青いバスが自動車と赤いバスの双方から同じ比率で利用者を奪うという不自然な結果が生じる。
自動車市場に置き換えれば、コンパクトカーの価格が上昇したとき、同じクラスの競合車だけでなく、高級スポーツカーや大型バンへも一定の割合で消費者が移ることになる。
現実の消費者は、そのようには行動しない。
ファミリーカーを探している人と、高級スポーツカーを探している人では、重視する性能も予算も異なるからである。
消費者は同じ人間ではない
BLPモデルの核心は、消費者の好みが一人ひとり違うことを、需要モデルの内部に組み込んだ点にある。
価格に敏感な人もいれば、多少高くてもブランドを重視する人もいる。
子育て世帯は車内空間や安全性を重視するかもしれない。若い単身者は価格や燃費を重視し、高所得者は馬力やデザインに強い価値を感じるかもしれない。
BLPモデルは、価格、車体サイズ、馬力、燃費などに対する評価が、すべての消費者で同じではないと考える。
この「ランダム係数」と呼ばれる仕組みによって、似た商品同士ほど強く競争するという現実的な代替関係を表現できるようになった。
コンパクトカーの価格が上昇すれば、コンパクトカーを好む消費者は、別のコンパクトカーへ移りやすい。
高級スポーツカーを求める消費者は、コンパクトカーの価格が多少変わっても、ほとんど反応しない。
現在では当然に思えるが、消費者の多様性を維持しながら、多数の商品が存在する市場を実際に推定できる形にしたことが、BLPモデルの革新だった。
「見えない品質」と価格の内生性
BLPモデルのもう一つの重要な貢献が、価格の内生性問題への対応である。
商品の売れ行きを左右する要素のすべてが、統計データに記録されているわけではない。
自動車には、デザインの良さ、ブランドへの信頼、細部の仕上がり、販売店の対応、乗り心地など、数値化しにくい品質が存在する。
企業は、自社製品の品質や人気をある程度把握している。そのため、人気が高い商品には高い価格を設定できる。
すると、データ上では「価格が高い商品ほど売れている」という関係が観察されることがある。
これをそのまま分析すれば、価格が上がるほど需要が増えるという誤った結論になりかねない。
実際には、高価格だから売れたのではない。データに記録されていない品質が高いため、高い価格でも売れたのである。
BLPモデルは、観察できない製品品質を需要関数に組み込み、操作変数法を利用することで、価格そのものが需要に与える効果を識別しようとした。
この問題への対応は、単なる統計技術ではない。
市場支配力、企業の価格設定、合併による値上げ、新商品の価値を測る際の根幹に関わる。
市場シェアから需要構造を逆算する
BLPモデルが画期的だった理由は、必ずしも全消費者の詳細な購買履歴がなくても推定できる点にもある。
基本的に必要となるのは、各商品の価格、販売台数または市場シェア、燃費や馬力などの商品特性、市場規模、所得分布などである。
研究者は、まず仮定した消費者の好みに基づいて各商品の市場シェアを計算する。そして、計算上のシェアが実際に観察された市場シェアと一致するように、商品の平均的な効用を逆算する。
この反復計算が、一般に「BLPインバージョン」と呼ばれる。
多数の商品と多様な消費者が存在する複雑な市場を、現実の市場シェアと整合する形で推定できるようにしたのである。
原著論文では、1971年から1990年までの米国自動車市場が分析された。
価格、馬力、燃費、大きさなどが異なる多数の自動車について需要と供給を同時に推定し、価格弾力性、企業の利幅、商品間の代替関係などを明らかにした。
経済学を「観察」から「政策実験」へ変えた
BLPモデルの本当の力は、過去のデータを説明するだけではない。
推定した消費者の好みと企業行動を利用して、現実にはまだ起きていない政策や市場変化をシミュレーションできる。
例えば、二つの自動車メーカーが合併したらどうなるのか。
合併前には、A社が価格を上げれば、一部の消費者がB社へ逃げていた。しかし、A社と
B社が同じ企業になれば、B社へ移った顧客も企業グループ全体から見れば失われない。
その結果、合併後の企業には価格を引き上げる誘因が生まれる可能性がある。
BLP型の需要推定を使えば、どの商品同士が強く競争しているのか、価格上昇によって
消費者がどこへ移るのかを分析し、合併後の価格や消費者厚生を予測できる。
この考え方は、企業結合審査や反トラスト分析に大きな影響を与えた。
ただし、モデルの結果だけで合併の可否が機械的に決まるわけではない。市場参入、企業の効率性、供給能力、契約関係など、個別市場の事情と組み合わせて判断する必要がある。
それでも、競争政策を抽象的な議論から数量的な政策分析へ進めた意義は大きい。
環境政策とイノベーションの評価
BLPモデルは、環境政策の分析にも利用できる。
電気自動車へ補助金を出した場合、どの車種から電気自動車へ消費者が移るのか。
大型車への課税を強めた場合、小型車や公共交通への移行はどの程度起きるのか。
燃費規制を強化した場合、企業は価格や車種構成をどのように変えるのか。
単純に「電気自動車の販売台数が増えた」と観察するだけでは、補助金の費用対効果や、二酸化炭素排出量への最終的な影響は分からない。
どの消費者が何から何へ乗り換えたかを推定して初めて、政策効果を評価できる。
新商品が社会にもたらした価値の測定にも応用されている。
アミル・ペトリンは2002年の研究で、BLP型の枠組みを利用し、米国市場におけるミニバンの登場が消費者にもたらした便益を分析した。
また、アヴィヴ・ネヴォはシリアル食品市場の分析に応用し、ブランド間競争や市場支配力を研究した。
2004年には、ベリー、レヴィンソン、ペイケス自身が、個人の第一希望・第二希望や消費者属性などのミクロデータと市場全体のデータを組み合わせる方法を発表した。
現在では、こうした手法は「Micro-BLP」や「micro moments」と呼ばれる研究へ発展し、より詳細な消費者行動を推定するために利用されている。
3人での受賞はあり得るのか
ノーベル経済学賞は、最大3人まで共同受賞できる。
その意味では、ベリー、レヴィンソン、ペイケスの3人は、BLPモデルを中心とする一つの研究業績で共同受賞する形式に収まりやすい。
もっとも、3人の研究経歴は完全に同じではない。
スティーブン・ベリーは、差別化された製品市場の需要推定、企業参入、航空市場、メディア市場などで実証産業組織論を発展させてきた。
ジェームズ・レヴィンソンは、産業組織論だけでなく、国際貿易、経済発展、生産性分析にも重要な業績を残している。
アリエル・ペイケスは、BLPモデルに加え、オルリー=ペイケス法と呼ばれる生産関数推定、技術革新、企業動学、特許価値の分析など、より広い範囲で構造推定の発展に貢献してきた。
特にペイケスは、ティモシー・ブレスナハン、ロバート・ポーターとともに、実証産業組織論を創設し形成した功績で、2018年にBBVA財団フロンティア・オブ・ナレッジ賞を受賞している。
同賞がペイケスらを「市場支配力を測定するための基本的な技術を発展させた研究者」と評価したことは、その学術的影響の大きさを示している。
一方で、ノーベル経済学賞が「実証産業組織論の形成」という広いテーマで授与される場合、共同受賞者の組み合わせはBLPの3人とは限らない。
ブレスナハン、ポーター、ベリー、ペイケスなど、分野の形成に寄与した研究者から最大3人を選ぶ可能性も考えられる。
また、レヴィンソンはBLP論文の中心的著者であるものの、受賞対象が「実証産業組織論全体の確立」と設定された場合、選考上の評価がどのようになるかは分からない。
したがって、「BLPの3人が必ず共同受賞する」と予測することはできない。
それでも、BLPモデルが1990年代以降の実証産業組織論の方向を決定づけたこと、差別化財市場の需要推定を現実に使える形へ変えたこと、競争政策や企業分析へ長期的な影響を与えたことは疑いない。
経済学に与えた三つの変化
BLPモデルの功績は、三つに整理できる。
第一は、消費者の多様性を取り入れ、現実的な商品間の代替関係を推定可能にしたことである。
第二は、観察できない品質と価格の内生性に向き合い、価格弾力性や市場支配力をより信頼できる形で測定できるようにしたことである。
第三は、経済理論と市場データを結びつけ、合併、新商品、税制、補助金、環境規制などの反実仮想シミュレーションを可能にしたことである。
BLPモデルは、単なる高度な計量経済学の公式ではない。
企業がどの程度の価格決定力を持っているのか。
合併によって消費者が不利益を受けるのか。
新しい商品は社会にどれだけの価値を生み出したのか。
環境規制や補助金は、本当に消費者の行動を変えるのか。
こうした現実社会の問いに、理論とデータを使って答えるための基盤である。
マクファデンが個人の選択を分析する離散選択モデルを確立し、ノーベル経済学賞を受賞したのであれば、その枠組みを差別化財市場の競争分析へ大きく発展させたBLPの研究も、同賞の有力な対象となり得る。
正式な候補者名は公表されない。
しかし、過去30年間の産業組織論を振り返るとき、スティーブン・ベリー、ジェームズ・レヴィンソン、アリエル・ペイケスの名前を、将来のノーベル経済学賞受賞者候補として論じることには、十分な学術的根拠がある。
「似ている商品ほど、互いに強く競争する」
当たり前に聞こえるこの現実を、複雑な市場データから数量的に測定できるようにした。
それこそが、BLPモデルが経済学にもたらした革命なのである。
【主要人物・公式プロフィール】
スティーブン・ベリー イェール大学
https://economics.yale.edu/people/steven-berry
ジェームズ・レヴィンソン イェール大学経営大学院
https://som.yale.edu/faculty-research/faculty-directory/james-levinsohn
アリエル・ペイケス ハーバード大学
https://www.economics.harvard.edu/people/ariel-pakes
人物解説
Steven T. Berry
https://en.wikipedia.org/wiki/Steven_T._Berry
James Levinsohn
https://en.wikipedia.org/wiki/James_Levinsohn
Ariél Pakes
https://en.wikipedia.org/wiki/Ari%C3%A9l_Pakes
【参考資料・主要論文】
Berry, Steven, James Levinsohn and Ariel Pakes(1995)
“Automobile Prices in Market Equilibrium,” Econometrica, Vol.63, No.4, pp.841–890.
https://ideas.repec.org/a/ecm/emetrp/v63y1995i4p841-90.html
Berry, Steven, James Levinsohn and Ariel Pakes(2004)
“Differentiated Products Demand Systems from a Combination of Micro and Macro Data: The New Car Market,” Journal of Political Economy, Vol.112, No.1, pp.68–105.
https://www.journals.uchicago.edu/doi/10.1086/379939
Petrin, Amil(2002)
“Quantifying the Benefits of New Products: The Case of the Minivan,” Journal of Political Economy, Vol.110, No.4, pp.705–729.
https://ideas.repec.org/a/ucp/jpolec/v110y2002i4p705-729.html
Einav, Liran and Jonathan Levin(2010)
“Empirical Industrial Organization: A Progress Report,” Journal of Economic Perspectives, Vol.24, No.2, pp.145–162.
https://www.aeaweb.org/articles?id=10.1257/jep.24.2.145
Ackerberg, Daniel, C. Lanier Benkard, Steven Berry and Ariel Pakes(2007)
“Econometric Tools for Analyzing Market Outcomes,” Handbook of Econometrics, Vol.6A.
米国連邦取引委員会
“Demand System Estimation and Its Application to Horizontal Merger Analysis”
BBVA Foundation Frontiers of Knowledge Award
Ariel Pakes, Timothy Bresnahan and Robert Porter
https://www.frontiersofknowledgeawards-fbbva.es/galardonados/ariel-pakes-2
ノーベル経済学賞の推薦・選考制度
https://www.nobelprize.org/nomination/economic-sciences
さくらフィナンシャルニュース リンク集
YouTube
https://www.youtube.com/@sakurafinancialnews






























































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































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