注目の記事 PICK UP!

企業はなぜ挑戦できなくなるのか

―ミルグラムとホルムストロームが示した組織設計と資本配分の限界―

新規事業に携わったことのある経営者であれば、一度は似たような経験をしたことがあるのではないだろうか。

既存事業では高い評価を受けてきた優秀な人材ほど、新しい挑戦の場面で慎重になる。市場調査を求め、データを求め、計画を求める。そして十分な情報が揃わない限り動こうとしない。

その姿を見て、「大企業の人材は挑戦を嫌う」「変化への適応力が低い」と評価する人もいる。しかし、その見方は本質を見誤っているように思う。

彼らは挑戦を嫌っているのではない。これまでの環境で合理的だった行動を続けているだけなのである。

この現象を理解するうえで極めて示唆に富むのが、1991年に経済学者ポール・ミルグラムとベント・ホルムストロームが発表した『Multitask Principal-Agent Analyses』である。この論文は契約理論や組織論の発展に大きな影響を与え、後の経済学研究の礎となった。

彼らが着目したのは、人間の仕事の多くが複数のタスクによって構成されているという事実だった。

企業の仕事には、売上や利益、契約件数のように比較的測定しやすいものがある。一方で、人材育成、顧客との信頼関係の構築、企業ブランドの維持、新しい事業機会の探索といった活動は簡単には数値化できない。しかし企業価値を長期的に支えているのは、むしろ後者である場合が少なくない。

ここで問題が生じる。

もし企業が測定しやすい数字だけを評価対象にした場合、人は当然ながら数字になる行動ばかりに時間とエネルギーを使うようになる。営業担当者は短期的な売上を追い、管理職は目先の利益を優先し、研究開発部門は失敗のリスクが高い挑戦を避けるようになる。

その結果、短期的な業績は改善するかもしれない。しかし長期的には企業の競争力を支える重要な活動が失われていく。

ミルグラムとホルムストロームが示したのは、まさにこの構造だった。

一般に成果主義は合理的な制度だと考えられている。しかし彼らの理論によれば、測定できない重要な仕事が存在する組織では、成果主義を強くしすぎること自体が非合理になり得る。

多くの大企業で固定給の比率が高く、評価の差が極端につかない理由もここにある。それは社員に甘いからでも、変化を嫌っているからでもない。数字では測れない活動を守るための制度設計なのである。

実際、大企業の既存事業はこの考え方と極めて相性が良い。

既存事業では顧客が明確であり、商品も市場も確立されている。過去のデータが蓄積されており、予算も計画も比較的正確に立てられる。そこで求められるのは、リスクを抑えながら安定的に成果を積み上げる能力である。

大企業で評価されてきた人材は、そのゲームの勝者だった。

だからこそ新規事業に移った瞬間、状況は一変する。

新規事業には正解がない。顧客は誰なのか。本当に課題は存在するのか。その課題に対価を支払う人はいるのか。誰にも分からない状態から出発する。市場調査をしても確信は得られず、事業計画を作っても仮説にすぎない。むしろ重要なのは、仮説を立て、検証し、間違いを発見し、学習を繰り返すことである。

つまり新規事業とは、測定しにくいタスクの集合体なのである。

ところが多くの企業は、既存事業と同じ評価制度で新規事業を管理しようとする。売上目標を設定し、利益計画を作り、達成率で評価する。しかし、それは野球選手にサッカーのルールで試合をさせながら、なぜ活躍できないのかと問い詰めるようなものだ。

成果が出ないのは能力の問題ではない。ゲームのルールと評価基準が噛み合っていないのである。

日本企業の多くが新規事業で苦戦する理由も、突き詰めればここにあるのではないだろうか。

新規事業の失敗は、市場の問題やアイデアの問題として語られることが多い。しかし実際には、既存事業向けに最適化された組織が、新規事業というまったく異なるゲームに挑んでいること自体が原因である場合も少なくない。

経営者はしばしば「もっと挑戦してほしい」と語る。しかし人は言葉によって動くのではない。評価される行動によって動く。

失敗すれば減点される組織であれば、人は挑戦しない。前例を確認し、責任を分散し、リスクを避ける。それは社員が保守的だからではなく、その行動が合理的だからである。

逆に、仮説検証の回数や顧客へのヒアリング数、得られた学習の質が評価されるのであれば、人は自然と行動するようになる。

ミルグラムとホルムストロームの理論が示したのは、人は能力や気合いで動くのではなく、インセンティブによって動くという極めてシンプルな事実だった。

多くの経営者は「挑戦しない社員」に不満を抱く。しかし、その社員を生み出したのもまた組織自身である。人は環境に適応する。だから組織を変えたいのであれば、人を責める前にルールを見直さなければならない。

そして、この問いは現場だけの問題ではない。

新規事業を評価するのは最終的に取締役会であり、資本配分を決めるのもまた取締役会である。もし取締役会が既存事業と同じ基準で新規事業を評価するのであれば、経営陣も社員も合理的に挑戦を避けるようになるだろう。

企業が未来を創るとは、新しい事業に資本を投じることである。しかし、その挑戦を短期的な利益や売上だけで評価するのであれば、企業は未来を育てる前に自ら摘み取ってしまう。

ミルグラムとホルムストロームの論文は、単なる組織論ではない。

それは、企業が未来に投資できる組織なのか、それとも過去の成功体験を守る組織なのかを問う、経営そのものの理論なのである。

【参考文献】

Holmstrom, Bengt and Milgrom, Paul

“Multitask Principal-Agent Analyses: Incentive Contracts, Asset Ownership, and Job Design”

The Journal of Law, Economics, and Organization

Vol.7, Special Issue, 1991, pp.24-52

本稿で紹介した「測定しやすい仕事と測定しにくい仕事の関係」「成果主義の限界」「新規事業と既存事業で求められる評価制度の違い」などの考え方は、同論文で提示されたマルチタスク理論に基づいている。

同論文は、なぜ企業が固定給を採用するのか、なぜ成果主義が必ずしも最適解ではないのか、なぜ新規事業を既存事業と同じ物差しで評価してはいけないのかを理論的に説明した、組織論および契約理論の代表的研究として知られている。

論文URL:

https://academic.oup.com/jleo/article-abstract/7/special_issue/24/2194011?login=false

PDF:
https://people.duke.edu/~qc2/BA532/1991%20JLEO%20Holmstrom%20Milgrom.pdf

さくらフィナンシャルニュース




YouTube
https://www.youtube.com/@sakurafinancialnews

公式X
https://x.com/sakurafina0123

公式note
https://note.com/sakurafina

さくらフィナンシャルニュース

関連記事

  1. 雇用・産業・貿易統計から見える「くらし」の実態

  2. 【国民民主・玉木代表実弟の素行問題が可視化して来た①キングスコイン】

  3. コストプッシュインフレの危機とその対策:過去との比較から見える現在の深刻さ

  4. 公的年金の「財政検証」を「検証する」(下)

  5. インフレとは何か?コストプッシュ型とデマンドプル型を徹底解説!

  6. 終身雇用を終わらせる覚悟があるか

  7. 公益通報制度を考える~兵庫県、ビッグモーター社、ダイハツ~ 消費者庁も有識者検討会で年末までに意見集…

  8. 公的年金の「財政検証」を「検証する」(上)

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

CAPTCHA


PAGE TOP