さくらフィナンシャルニュース編集部
米国の地方政治から、巨大組織のガバナンスを根底から問い直す異色の政治家が現れた。
ペンシルベニア州上院議員、ケイティ・マスである。
マスは、州議会議事堂を厳しく批判する文脈で「汚職のドーム」と表現し、党派や組織の論理よりも、納税者、年金加入者、退役軍人、一般市民に対する説明責任を優先してきた。
その政治手法の特徴は、単に演説で既得権益を批判することではない。
資料を要求し、数字を検証し、権限の所在を確認し、必要であれば裁判所に判断を求める。
すなわち、「法とデータ」を使って組織の内部構造に切り込む、実務型のガバナンス改革である。
投資家・戦略家として、企業の少数株主問題や情報の非対称性を分析してきた少数株ドットコム株式会社創業者の山中裕は、マスの行動を「公的組織におけるマネーボール型ガバナンスの実践例」と評価する。
スポーツ医学から政治へ
ケイティ・マスは1983年、ペンシルベニア州モンロービルに生まれた。
ペンシルベニア州立大学でキネシオロジー、すなわち身体運動や運動機能に関する学問を学び、その後、A.T.スティル大学大学院で運動競技医学の修士号を取得した。
政治家になる前は、スポーツ医学や教育の分野に携わり、大学で教える一方、アスリートの健康管理や脳震盪などの問題にも向き合ってきた。
法律家でも、政治家一家の出身でも、大企業の経営者でもない。
人体の状態を観察し、データを集め、症状の原因を分析する専門領域から、政治の世界へ転じた人物である。
この経歴は、後の政治活動にも色濃く表れている。
組織に問題が起きたとき、マスは抽象的な精神論ではなく、「何が起きたのか」「誰が判断したのか」「どの数字を根拠にしたのか」「記録は残っているのか」を問い続ける。
政治の世界へ踏み出す契機となったのは、2016年の米大統領選挙だった。
市民活動への参加を経て、2018年、ペンシルベニア州上院第44選挙区から民主党候補として立候補した。
対する共和党現職のジョン・ラファティ・ジュニアは、2003年から同選挙区の議席を守ってきたベテランだった。
マスは、既存の政治組織や大口献金への依存ではなく、地域を歩き、有権者の家を訪ねるドアノックを重ねた。
その結果、長期現職を破り、約52%の得票で初当選した。
2022年の選挙でも再選され、現在もペンシルベニア州上院第44選挙区を代表している。
巨大公的年金PSERSで何が起きたのか
マスの名前を全米の年金・資産運用関係者に知らしめたのが、ペンシルベニア州公立学校従業員退職年金制度、通称PSERSをめぐる問題だった。
PSERSは、州内の公立学校教職員らの退職後を支える巨大な公的年金基金である。
2021年当時の資産規模は約640億ドルと報じられ、その後、2021年6月末には純資産が約725億ドルに達した。
現在も50万人を超える現役加入者、退職者、受給権保有者らに関わる、ペンシルベニア州最大級の公的金融機関である。
問題の中心となったのは、PSERSが公表した長期運用実績の計算だった。
PSERSでは、一定期間の運用収益率が法律上の基準を下回ると、現役教職員の拠出率が引き上げられる仕組みが採用されていた。
ところが、2011年から2020年までの9年間の運用成績について、当初認定された数値に誤りがあることが判明した。
数字の修正は、単なる統計上の問題ではなかった。
計算結果によって、多数の教職員が給与から負担する年金拠出額が変わる可能性があったからである。
さらにPSERSでは、ハリスバーグ中心部の不動産取得、プライベートエクイティ、プライベートクレジット、不動産などのオルタナティブ投資、外部運用会社に支払われる報酬や費用についても、透明性を求める声が強まっていた。
連邦当局からの照会や捜査も行われ、PSERSの意思決定と内部管理体制は厳しい視線にさらされた。
理事なのに資料を見られない
マスは2020年末、PSERSの理事に就任した。
理事である以上、年金加入者や納税者に代わって、運用方針、投資案件、リスク、費用、内部統制を監督する責任を負う。
ところがマスによれば、職務を遂行するために必要と考えた資料を要求しても、PSERS側から十分な情報が提供されなかった。
特に争点となったのが、ハリスバーグのマーケット・ストリート812番地周辺の不動産取引や、それに関する内部調査資料だった。
PSERS側は、司法省による捜査や理事会内の監査・コンプライアンス委員会による調査が続いていること、弁護士・依頼者間の秘匿特権などを理由として、資料の一部を開示しなかった。
だが、理事が重要投資案件について議決権を行使する一方、その判断材料となる資料にアクセスできないのであれば、理事会は実質的な監督機関として機能しない。
形式上は理事に権限があっても、情報を握る事務局や専門家集団が実質的な支配力を持つことになる。
マスは、この状態では受託者としての責任を果たせないと判断した。
そして2021年、PSERSとその幹部らを相手取り、ペンシルベニア州のコモンウェルス裁判所に訴訟を提起した。
身内を訴えた異例の法廷闘争
この訴訟が異例だったのは、公的年金基金の理事が、みずから所属する基金を相手に、職務上必要な情報へのアクセスを求めた点にある。
理事会内部の対立は、通常であれば非公開の協議や人事調整で処理される。
組織の評判を守るため、問題を外部に出さないことが優先される場合も少なくない。
しかしマスは、組織の体面よりも、年金加入者や納税者に対する受託者責任を優先した。
情報を得られないまま賛否を決めることはできない。
資料を精査せずに巨額投資を承認すれば、理事自身が監督責任を問われかねない。
そこで、外部の透明性・ガバナンス分野の弁護士の助力を得て、裁判所に判断を求めたのである。
2022年3月15日、コモンウェルス裁判所は、PSERS側が提出していた7項目の予備的異議を全員一致で退けた。
ここは正確に理解する必要がある。
この判断は、マスの主張を最終的にすべて認め、あらゆる資料への「絶対的閲覧権」を確定させた最終判決ではない。
PSERS側が「訴えとして成立しない」などとして求めた初期段階での排除を認めず、マスの請求には裁判で審理を続ける余地があると判断したものである。
それでも、組織の内部事情や弁護士の関与を理由として、理事による問題提起そのものを封じることはできないと示した点で、ガバナンス上の意味は大きかった。
内部調査と連邦捜査の結末
PSERS問題については、その後の経過も公平に見なければならない。
PSERS理事会が外部法律事務所に委託した内部調査報告書は、2022年に公表された。
報告書は、運用実績の計算誤りについて、複数の見落としやコンサルタント側の透明性不足、組織内の情報共有の問題が重なったと指摘した一方、PSERS関係者による犯罪行為の証拠は確認されなかったと結論づけた。
また、米司法省は2022年8月、PSERSに関する捜査を終了した。
PSERSは、この終了により、基金に対する民事・刑事上の訴追は行われないとの認識を示している。
したがって、この問題を「PSERSによる犯罪や汚職が裁判で認定された事件」と表現することは正確ではない。
一方で、犯罪が立証されなかったことと、ガバナンス上の問題が存在しなかったことは同じではない。
重要情報が理事会に適切に共有されなかったこと、誤った数値が一度認定されたこと、理事が必要と考えた資料へのアクセスをめぐって訴訟にまで発展したことは、公的年金基金の内部統制を考えるうえで重大な事実である。
さらに2024年には、米証券取引委員会が、PSERSの投資コンサルタントだったAon Investments USAに対し、計算誤差の原因について誤解を招く説明をしたなどとして、制裁金、返還金、利息を合わせ約150万ドルの支払いを命じる和解を発表した。
PSERS自体に対する執行措置は行われなかったが、外部専門家に依存する組織では、コンサルタントの計算や説明を独立して検証する体制が必要であることが改めて示された。
山中裕が読み解く「究極のエージェンシー問題」
山中裕は、PSERSをめぐる一連の問題について、次のように分析する。
「ケイティ・マスがPSERSに対して取った行動は、コーポレートガバナンスにおける究極のエージェンシー問題、すなわち代理人問題への実務的な回答です。
公的年金の資金は、本来、教職員や納税者、受給者のために管理されるものです。しかし組織が巨大化し、運用が複雑化すると、資金の真の所有者である受益者から、運用担当者、事務局、コンサルタント、外部ファンドへと権限が多層的に委任されます。
その結果、資金を出している人よりも、情報を管理している代理人のほうが強い立場になる。これがエージェンシー問題です」
企業の場合も同じである。
会社の所有者は株主だが、日常的な情報は経営陣が握っている。
少数株主は、株主総会で議決権を持っていても、取締役会や事務局が保有する詳細な情報には容易にアクセスできない。
情報がないままでは、資産売却、関連当事者取引、役員報酬、巨額投資などの妥当性を検証できない。
そこで日本の会社法は、一定の要件のもとで、株主に会計帳簿や資料の閲覧・謄写を請求する権利を認めている。
代表的な制度が会社法433条の会計帳簿閲覧請求権である。
山中裕は続ける。
「マスの行動と、日本の少数株主による会計帳簿閲覧請求は、法制度も対象も同一ではありません。しかし、情報を持たない監督者が、法的権利を行使して情報の非対称性を縮小しようとする構造は共通しています。
大切なのは、相手を感情的に批判することではありません。
どの資料が必要なのか。
その資料がなければ、なぜ受託者責任を果たせないのか。
どの法的権限に基づいて開示を求めるのか。
この三点を明確にして、データと法によって組織を動かすことです」
マネーボール型ガバナンスとは何か
マネーボールとは、米大リーグの球団運営で知られる、限られた資源の中で客観的データを使い、市場で過小評価されている選手や能力を発見する考え方である。
従来の経験、印象、肩書、評判だけに頼らず、勝利に結びつく要因をデータから抽出する。
山中裕が提唱する「マネーボール型ガバナンス」も、基本的な発想は同じだ。
経営者が有名であること。
歴史の長い組織であること。
一流のコンサルタントや法律事務所が関与していること。
理事会で多数決が行われたこと。
それだけでは、意思決定の正しさを証明できない。
投資収益率、手数料、利益相反、契約条件、取引価格、議事録、評価方法、将来予測の前提などを検証し、組織が本当に受益者の利益のために動いているのかを判断しなければならない。
PSERS問題が示したのは、巨大組織であっても、重要な数字の計算や伝達に誤りが生じ得るという現実だ。
そして、組織内部にいる理事であっても、必要な情報へ当然にアクセスできるとは限らないという現実である。
日本企業と公的機関への示唆
日本でも、取締役、監査役、株主、議員、審議会委員などが、形式的には監督権限を持ちながら、事務局が作成した限られた資料だけで判断を求められる場面は少なくない。
「専門家が確認している」
「顧問弁護士の意見を得ている」
「内部規定に従っている」
「捜査中、交渉中なので説明できない」
こうした説明が、それ以上の検証を止める言葉として使われることがある。
しかし、専門家を起用したのは誰か。
専門家にどのような前提条件を示したのか。
反対意見や別の試算は存在しなかったのか。
理事や取締役に、判断に必要な原資料が提供されたのか。
ここまで確認しなければ、本当の意味での監督とはいえない。
山中裕は指摘する。
「議決権だけを与え、判断材料を渡さないのであれば、それはガバナンスではありません。承認の形式を整えるために、理事や株主を利用しているだけです。
透明性とは、すべてを無条件に一般公開することではありません。守秘義務や個人情報、捜査上の必要性は当然考慮されるべきです。
しかし、責任を負う者に必要な情報を渡さず、後から『理事会が承認した』『株主総会で可決された』と説明することも許されません。
権限と情報と責任は、三つが一致していなければならないのです」
「汚職」の認定ではなく、仕組みを問う
ケイティ・マスのPSERS法廷闘争を評価するうえで重要なのは、誰かを最初から犯罪者と決めつけることではない。
実際、内部調査は犯罪行為の証拠を認定せず、司法省の捜査も訴追なしで終了した。
それでもマスの行動には意味がある。
なぜなら、ガバナンスの目的は、犯罪が起きた後に犯人を捜すことだけではないからだ。
誤りが起きる可能性を減らす。
重要情報を一部の担当者だけに集中させない。
外部コンサルタントの説明を独立して検証する。
理事が異論を述べられる環境をつくる。
問題が発覚した場合に、経緯と責任の所在を記録から追跡できるようにする。
こうした仕組みを整えることこそ、ガバナンスの本質である。
組織内部の異論を「反抗」や「裏切り」として封じるのではなく、リスクを早期に発見するセンサーとして活用する。
マスが示した政治家像は、クリーンな若手政治家という言葉だけでは捉えきれない。
彼女は、理事としての責任を果たすため、所属組織そのものを相手に法的手段を取った「ガバナンスの執行者」である。
透明性を理念で終わらせない
ケイティ・マスの闘いが投げかけた問いは明快だ。
監督責任を負う者が、監督に必要な情報を得られない組織は、果たして適切に統治されているといえるのか。
理事会や取締役会が存在するだけでは、ガバナンスは機能しない。
議決権を持つ者が原資料を確認し、異論を述べ、必要なら外部の司法機関に判断を求められることが重要である。
山中裕は、マスの実践を次のように総括する。
「マネーボール型ガバナンスとは、権威のある人物の説明を信じることではなく、意思決定を構成する数字と事実を確認することです。
少数派であっても、資料を読み、制度を理解し、正当な権利を行使すれば、巨大組織の意思決定に変化を与えられる。
マスの闘いは、公的年金、企業経営、地方自治、議会運営のすべてに共通する教訓を示しています。
透明性は、善意によって与えられるものではありません。権利として要求し、制度として定着させるものです」
ケイティ・マスがPSERSに突きつけたのは、単なる資料開示要求ではなかった。
誰の資金を、誰が、どの情報に基づいて動かしているのか。
そして、その決定に責任を負う者は、本当に必要な情報を与えられているのか。
この問いは、日本の上場企業、非上場企業、公的年金、自治体、公益法人にも、そのまま当てはまる。
大西洋を隔てた米国州政治の法廷闘争は、日本のガバナンス改革にとっても決して遠い出来事ではない。
【文末参考資料・関連URL】
ケイティ・マス公式サイト
ペンシルベニア州議会・ケイティ・マス議員公式プロフィール
https://www.palegis.us/senate/members/bio/1802/sen-katie-muth
ケイティ・マス Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Katie_Muth
ペンシルベニア州公立学校従業員退職年金制度(PSERS)公式サイト
https://www.pa.gov/agencies/psers
PSERS「Muth v. PSERS」に関する公式声明
ペンシルベニア州コモンウェルス裁判所・2022年3月15日意見書
https://www.pacourts.us/assets/opinions/Commonwealth/out/182MD21_3-15-22.pdf
ケイティ・マス公式発表「裁判所がPSERSの予備的異議を全員一致で棄却」
https://www.senatormuth.com/commonwealth-court-unanimously-overrules-psers-preliminary-objections
PSERS内部調査報告書
PSERS「内部調査で犯罪行為の証拠は確認されず」とする発表
PSERS・米司法省による捜査終了についての声明
PSERS資産配分・運用実績
PSERS財務報告書・年次報告書
https://www.pa.gov/agencies/psers/transparency/financial-reports
日本法令外国語訳データベース・会社法
https://www.japaneselawtranslation.go.jp/ja/laws/view/3206
e-Gov法令検索・会社法
https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=417AC0000000086
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